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入社当時の俺は、彼女に爪の先ほどの興味も抱かなかった。
同僚である彼女は、少しぽっちゃりとしている見た目通り、鈍臭くて、ミスもしばしば。
とにかく要領が悪い。頭の回転も遅い。でも、どれだけ怒られても言い訳はひとつもしなかったし、人前で涙は流さなかった。
しかしそんな彼女の涙を一度だけ見たことがある。
夜のオフィス、忘れ物を取りに戻ったら、彼女が一人開いたままのパソコンの前で泣いていた。
誰もいないオフィスは静まりかえっていて、その中でズズズっと、鼻を啜る音だけが響いていた。
やがて彼女は袖で涙を拭い、懸命にボードを叩き始める。
話しかけたら気を遣わせるだろうか。仕事の邪魔になるだろうか。
でも、何か一言ーー。
声をかけようと右足を踏み出したとき、ポケットが震えた。
手を突っ込み、震えの止んだスマホをとりだす。差出人は友人で、恋人の惚気と言う名の愚痴が綴られていた。
俺は返事もせずにスマホを右のポケットに戻すと、足を進める。
「お疲れ様」
軽く挨拶をすると、彼女の肩がびくりと震え、こちらを向いた。
すると瞬く間にそう大きくはない瞳が瞬いた。
「え? そ、園山くん? お、お疲れ様です……」
一体なぜ吃るのだろうか? 不思議に思いながら、労いの言葉をかけた。
「もう20時だよ。仕事、まだ終わりそうにないの?」
「あ、うん……明日の会議に使う資料、一昨年の数字のところに昨年の数字入れちゃって。一から資料見て数字入れ直してたの」
彼女の言葉を聞きながら、缶コーヒーでも買ってあげればよかったな、とぼんやり思った。
頬には涙の痕が滲んでいて痛々しい。
「手伝おうか?」
「う、ううん! 大丈夫! あとは確認作業だけだから……ありがとう、園山くん」
柔らかく笑った。
愚痴も零さず、ただいつも目の前の作業を必死にこなしているのを知っている。
彼女は同期であり同僚だ。他の同期から情報が入ってくるし、何より俺の前の席で仕事をしているから、いつも真剣な目でパソコンと睨めっこをしているのを見ていた。
本当に真面目で、頑張り屋で、いつか潰れてしまわないか心配だな、と思う。
「園山くんはどうしたの?」
「ああ、忘れ物をしてしまって」
自分のディスクの引き出しを開け、お目当てのものを取り出し、鞄の中へと閉まった。
「羽海野さんは、苦手な飲み物とかある?」
「え? えと、苦いのが苦手だからコーヒーとか、抹茶とかはあんまり飲まないかな?」
質問の意図がわからないのだろう。首を傾げながら答えた。
勘のいい人ならばすぐに気づきそうなものだけれど。やはり彼女は想像していた通り、鈍い。
「そ。わかった」
踵を返し、出入り口に向かう。 後ろからお疲れ様、という可愛らしい声音がしたが、それには答えず、近くにある自販機に向かった。
ーーコーヒーを買わなくて良かったな。買うのは……そうだな、温かいココアにしよう。
オフィスに戻ると、また彼女は肩をビクリと揺らし、瞳を瞬かせた。
先程と全く同じ反応だったことがおかしくて、小さく笑った。
彼女の隣に立ち、そっと差し出す。
「はい、ココア」
「え……?」
俺の手に握られているあたたかいココアを凝視し、その後またしても目を瞬かせた。
彼女の癖なのだろうか? なぜか可愛らしく見えて口が綻ぶ。
「あ、ありがとう!」
ふんわりと柔らかく笑った。
これも癖なのか、首をほんの少し傾げながら、百円ほどしかしないココアを握りしめ、とても嬉しそうに笑った。
一瞬、胸の奥がモゾモゾとし、ほんのり心の奥に光が灯った気がした。
「あとどれくらいかかりそう?」
「え? えーと、十五分くらいかな?」
「わかった。待ってるから送っていくよ」
「え!? だ、大丈夫! 大丈夫だよ! 一人で帰れるよ!」
小さな手の平をこちらに向け、ぶんぶんと左右に振った。あまりに大きな動きにぷっと吹き出す。
かわいい。口に出しかけてやめた。
今まで、同期同士の飲み会で近くの席になったことはあった。
けれどほとんど会話はなかったし、彼女をに視線を送ることもほとんどなかった。
そのことを少しだけ後悔した。
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