岸和田side

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

岸和田side

量販店で購入した白のポロシャツの上に、制服である黒のエプロンを纏う。左手首に巻いたロジウムメタルの腕時計に目をやると四時五十分だった。 あたしはパートとして働いているチェーンのドラッグストアの休憩室で、勤務前の身支度を整えるとパイプ椅子に腰を下ろした。テーブルの上には誰かがお土産として買ってきたお菓子が置いてある。それをつまみつつ、スマートフォンをポケットから取り出した。弟からのLINEが一件届いていた。 ーーさっき、無事退院しました。しばらくは松葉杖生活だけど笑 あたしはそれを見て、ほっと息を吐き出した。 ーーりょーかい あたしは弟にそう返した。本当はもっと沢山の伝えるべき言葉があるような気がしたけど、上手く思いつかなかった。 あたしの弟は現在神奈川県にある大学へと通っている。年は三つ下だ。その弟がバイクで事故って救急車で運ばれたのが、ちょうど二週間前の今日である。その日は雨が降っていて、濡れた路面でスリップしてガードレールへと突っ込んだのだった。 夜中に警察からうちのお父さんに連絡があって、お父さんとお母さんはそのまま大慌てで横浜の病院へとすっとんで行った。当然その日のうちにあたしにも連絡があってあたしも病院へと行こうと思ったけど、新幹線はもう終わっていたし、父さんからも止められてその日は家でおどおどしてた。結局あたしが病院に行って、ベッドの上で包帯でぐるぐる巻にされた弟の姿を見たのは一週間前のことだった。 さて、そろそろ売り場に出ようとあたしは立ち上がった。他のスタッフに挨拶をしながら売り場を歩き、レジカウンターの後ろのバックヤードに入りタイムカードを切る。 そう言えばめぐりさんは?今日出勤だった気がするけど見当たらないな、と思い壁に貼られたシフト表を見ると今日は十六時半までの勤務だった。ということは三十分前に上がったのか。それならあたしとすれ違いそうなものだけど、きっとタイミングが悪かったんだろう。 あたしはレジに立つ。二十二時までずっとだ。五時間勤務だから休憩もない。昨日がポイントアップデーで盛況だったからか、今日はあんまりお客さんはいなかった。レジの横でぼーっと立ってると、頭に浮かぶのはやっぱり弟のことだった。 高校生の頃あたしは声優になりたかった。もちろん厳しい世界だってことは分かってたけど当時のあたしはそれなりに本気で、専門学校について色々調べたり近所の河原でボイストレーニングをしたりもした。 でも、結局は弟に進学を譲ったのだった。あたしが高校三年生になった頃から、お父さんとお母さんはあたしにやんわりと就職を勧めてきた。薄々分かってはいた。うちは子供二人を進学させることが出来るほど裕福じゃないし、弟はあたしと違って勉強もできたし……。両親には「声優の専門学校に行きたい」とは言わなかったと思う。結果は目に見えていたから。ひとりで葛藤して、ひとりで気持ちを押し殺して、涙して就職の道を選んだのだった。商業高校卒業後、地元の食品会社に就職したあたしはそこで知り合ったひとつ上の先輩と二年前に結婚して今に至る感じだ。 あたしがそんなことを考えてるうちに三十分が経過した。時給八百円の仕事なので、四百円ゲットだ。この三十分の間にレジに来たのは主婦っぽい人が二人と、学生らしきちゃらちゃらした感じの男の子が一人だった。主婦二人は日用品を、男の子はヘアカラーを一つ買っていった。 あたしは勝手にめぐりさんに親近感のようなものを感じていた。めぐりさんもきっと弟である翔太郎に進学を譲ったんだろうなーって思う。直接そう聞いた訳じゃないけど、めぐりさん翔太郎よりも頭良かったし、進学校にも通ってたしきっと大学に行きたかったんじゃないかなーって気がする。あたしなんかとめぐりさんを同列に考えていいのかはよく分かんないけど、とにかくあたしはめぐりさんにこっそりと親しみを覚えていて、めぐりさんがんばれーって心の中で応援している。 そう言えばめぐりさんには何か夢があったのかな?なりたかったものとか。今度機会があったら聞いてみようかな。 そして、だからこそ翔太郎にはしっかりして欲しいと思ってる。去年大学を卒業して、こっちに帰って来てからはろくに働きもしないで家でだらだらしているだけらしい。しかも小説家になるとか言ってるんだとか……。その話をめぐりさんから聞いた時、あたしは開いた口が塞がらなかった。まったく、色々と恥ずかしくないのかな、あいつは。 だから、あたしは定期的にあいつにラインを送って発破をかけてるんだけど、今のところ目立った効果はない。まあ、あたしにはそれぐらいしか出来ることはないんだけどね。 めぐりさんは翔太郎のこと、どう思ってるんだろう?あたしは正直、自分の弟のことをどこか疎ましいって思ってた。弟に罪はないと知りながらも、あいつがいなければあたしは声優になれたのかななんて考えちゃうこともしばしばあった。 けど、今回の事故でもしかして弟がいなくなっちゃうんじゃないかって本気で怖くなった。我ながら矛盾してると思う。でも、弟っていう存在はどれだけ遠ざけようとしても出来ないって言うか、上手く言い表せないけどとにかく大事なんだと思う。それを痛感させられた。 きっと、めぐりさんと翔太郎の関係もそんな感じなんだろう。そんな気がするだけだけど。 二十一時半になった。結局あんまりお客さんは来なかったし、もう閉店まで誰も来ないだろう。あたしはトイレ掃除をしたり、ポイントカード入会の台紙をまとめたり、駐車場ののぼりを片付けたり閉店の準備をした。 そして二十二時になり、社員さんと二人で定時に上がった。 家までの田んぼ道を歩く。空気のにおいが秋のものに変わりつつある。田んぼの中に等間隔でそびえる鉄塔はまるで巨人みたいだ。稲が風にさらさら揺れる。 あたしはポケットからスマートフォンを取り出した。液晶の光がやけに眩しい。そしてしばらく立ち止まって考えてから、弟に向けてメッセージを送った。 ーーなんか困ったことがあったらいいなよ。お姉ちゃんなんだから 送信した後に、最後の一言は余計だったかなとちょっと思ったけどまあいいや。あたしはスマホをポケットに突っ込んでまた歩き出した。すっかり涼しくなった夜風がなんだか気持ちよかった。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!