父side

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父side

最近、俺には悩みが三つある。そして、そのどれもが家族に関する事である。 壁にかかった鳩時計を見ると、夜九時になろうとしていた。先ほど残業を終えて、帰宅した俺はスーツを脱ぎ食卓へとついた。母さんと子供二人はとっくに夕飯を食べ終えたらしく、俺の分の冷えた料理だけがテーブルの上にサランラップをかけられて、ぽつんと置かれている。 母さんは風呂に入っているらしく、息子の翔太郎と娘のめぐりはそれぞれ自分の部屋にいるんだろう、居間には俺ひとりだった。なんとなく虚しい気がしたので、テーブルの上にあったリモコンを掴みテレビをつけた。適当にザッピングしてバラエティー番組を流す。お笑い芸人や若手アイドルが出演していて、がやがやと賑やかな番組だった。 夕飯はクリームシチューと肉じゃが、そして酢の物だった。恐らく冷えているのだろうがレンジで温めるのが面倒だったので、俺はそのまま食べることにした。それぞれの皿のラップを剥がし、まずは肉じゃがを口に運ぶ。味付けは悪くないのだが、やっぱり冷たかった。じゃがいもも硬くなっている。 一つ目の悩み、それは最近母さんが俺に対して冷たいような気がすることだった。最近夫婦の会話も少ないし、態度も心なしかそっけない気がする。昔は料理ぐらい温めて俺の帰りを待っていてくれたんだがなぁ……。 でも、その原因は分かっている。明確に。それは長男の翔太郎が働きもせず、家でだらだらと過ごしていることだ。そしてこれが二つ目の、かつ一番大きな悩みである。 翔太郎は約一年半前に東京にある私立大学を卒業し、この新潟の実家に戻ってきた。在学中は公務員を目指して三年生の頃から学内のセミナーを受講し、四年生になると市役所や国家一般職等の採用試験に挑んでいた。けれどどうやら筆記試験はそこそこ通過したものの、面接試験でことごとく落とされたらしい。本人に詳しい話を聞いた訳じゃないから俺もだいたいの事情しか知らんのだが。(と言うか、翔太郎がこっちに戻ってきてからあまりまともな会話をしていない) そしてどこからも内定を貰えないまま、あいつは大学を卒業し、この実家へと帰ってきたのだった。そしてそれからというもの、職を探すでもなく毎日寝て過ごしていたりするらしい。別に公務員試験を受け続ければいいじゃないかと思うんだがなぁ……。 俺は冷えたクリームシチューをスプーンで掬って口に運ぶ。味は悪くないんだが……。それにしてもこれって、肉じゃがと入ってるものほとんど同じじゃないか?にんじんにじゃがいも、たまねぎ、豚こま肉。肉じゃがとの具材の違いは糸こんにゃくが入っていないだけのように思える。野菜の切り方も同じだし……。母さんに指摘すると機嫌が悪くなるだけだから、何も言わないが。そう言えば最近料理のレパートリーも心なしか少なくなったような気がするな……。 テレビから流れる、若手芸人の大笑いが居間に虚しく響いた。 父親として、自堕落な生活を続けている翔太郎に喝を入れるべきなのだと思う。けれど、俺には翔太郎に対する負い目のようなものがあった。俺自身市役所に勤める公務員で、翔太郎に公務員の道を勧めたのも俺なのだ。だから、公務員試験に敗れて恐らくショックを受けたであろう翔太郎に喝を入れるような真似をすることはなんとなく気が引けた。我ながら情けない父親だとは思うが……。 そんなこんなで、一年半の間翔太郎にかけるべき言葉も見当たらずにただただ見守り続けることしか出来なかった。 俺は夕飯を食べ終わり、食器を洗いソファに身を沈めた。しばらくぼーっとテレビを見ていたら母さんが風呂から上がってきた。 「あら、帰ってたの。おかえりなさい」 と、髪を拭きながら母さんが言う。 「ただいま」 俺は一言だけそう告げて、風呂に入ることにした。 ざぶんと湯船に浸かる。柑橘系の入浴剤のにおいが鼻をつく。これは娘のめぐりが、自分の働いているドラッグストアで買ってきたものだった。どうやら美容に良いらしい。そう言えば、めぐりがこの入浴剤を風呂に入れるようになってから肌がつるつるするようになった気がするな。どうでもいい話だが。ふぅーっと俺は大きく息を吐いて、浴槽に深く身を沈めた。天井が目に入る。 三つ目の悩みは娘のめぐりに関することだ。俺はめぐりに対して謝らなければならないと思っている。弟である翔太郎を大学に行かせるために、姉であるめぐりには大学進学を諦めてもらったという過去がある。めぐりはどうやら薬科大学に行って薬剤師になりたかったらしいのだが、その頃ばあちゃんの手術があったりと色々タイミングが悪かったのだ。 結局高校を卒業してそのままドラッグストアに就職しためぐりだったのだが、どうやらあいつ未だに大学入学の夢を諦めていないらしい。あいつから直接聞いた訳じゃない。二週間ぐらい前に偶然めぐりの部屋を見てしまったのだが、そこになんと薬科大学のパンフレットが落ちていたのだ。俺は仰天した。まさかと思った。けれど何やら勉強しているような様子もある。諦めの悪いあいつの性格からしても、きっと大学に入学しようと計画を立てているのだろう。そして、それは恐らく家族の誰にも言っていないことなのだろう。俺は罪悪感で少し胸が痛んだ。 俺は長めの風呂を出て、ビールを一缶空けて歯を磨いて眠りについた。 次の日、事態は急展開を迎える。珍しく俺は定時で仕事を終えて、十八時半に帰宅した。久しぶりに家族全員で一緒に食べる夕食だった。メニューはほっけの干物とほうれん草のソテーと海老チリ、そして厚揚げの味噌汁だ。毎度のことながら謎の取り合わせである。 外はまだほんのりと明るい。「いただきます」と四人で手を合わせる。俺はほっけを突いた。身をほぐすとほわほわと湯気が立ち昇り、やっぱり温かい料理っていいなと俺は改めて実感する。海老チリにも手をつけ、味噌汁を啜り白米を口に運ぶ。 ふと、横を見ると翔太郎が料理に一切手をつけず膝の上に手を置いて俯いている。なんだかかしこまっているみたいだ。なんだ、こいつ?結婚の挨拶でもするつもりか?と俺は訝しく思った。 「翔太郎、どうしたん?」 母さんも不思議に思ったのか、翔太郎に問いかけた。 「俺……月曜日から、ハローワーク行くわ」 翔太郎が呟くように言う。 俺と母さんは息を飲む。なんだなんだ?一体どういう風の吹き回しだ? 「俺……働くことにしたから」 それだけ言うと、翔太郎は箸を手に取り夕飯を食べ始めた。 「そ、そうか」 かけるべき言葉が出てこなくて、俺はそう答えると味噌汁に口をつけた。 「そう……がんばってね」 母さんもちょっと面食らったらしく、一言だけそう言った。けれど、その目は少し潤んでいた。 何故か妙な沈黙が流れる。箸と食器が触れ合うかちゃかちゃとした音だけが響いていた。俺はそっと、翔太郎の顔を覗き見た。その表情はすがすがしいというよりも、青白くまるで何かに怯えているようにも見えた。本当に大丈夫なんだろうかこいつは……。 かくして、二日後の月曜日の朝。翔太郎は七時に起きてきた。いつもなら俺が七時三十分に家を出るまでにあいつが起床するなんて、絶対にあり得ないはずなのに。母さんの話によると、昼ご飯の時間まで寝ていることも珍しくないらしい。どうやら、ハローワークに行くと言っていたのは本気だったんだなと俺はその時初めて思った。 そう言えば、昨日は本屋に行って封筒やら履歴書やら色々買ってきてたみたいだったな。めぐりのやつから、何やら就活のための本も貰ってたみたいだったし。親として嬉しい限りなのだが、本当に一体どういう風の吹き回しなんだろうかと俺は首を捻った。 その後一ヶ月が経った。季節はすっかり秋に変わり、気温は下がり街路樹も色付いた。俺も長袖の服をタンスから引っ張り出してきた。翔太郎はあれからずっと投げ出すことなく就活を続け、そして昨日ついに地元のビジネスホテルから内定を貰った。それまでに三、四社から採用を断られ、めぐりに履歴書を添削して貰っていたりもした。その末にやっと勝ち取った内定だった。 母さんも、めぐりも、そして俺も大喜びだった。昨日の夜はホットプレートで肉を焼き、刺身をつついた。みんな浮かれていたが、夕食のあと翔太郎と居間で二人きりになった時俺は少しあいつに釘を刺しておいた。 「翔太郎、内定を貰って喜ぶのはいいが、これがゴールじゃないんだぞ。あくまでスタートラインについたに過ぎないんだからな。そこのところをよく覚えておけよ」 と、父親らしくこんな感じの言葉をかけた。翔太郎はしかめっ面をしていた。そこは素直に頷けよ……。 さて、俺の方の問題もそろそろ片付けなくちゃいけない。娘のめぐりに関することだ。過去のことを謝らなくちゃいけない。そう言えばあいつの大学受験の準備は進んでいるのだろうか?ちょっと調べたら、地元の薬科大学の入試は二月の初めに行われるらしい。あいつは来年の試験をもう受けるつもりなのだろうか?その辺りも出来れば本人から直接聞いてみたいが……。 けれど、俺は結局あいつと面と向かってそんな話をする勇気が持てず、悩んだ末に手紙を書くことにした。情けない親父で本当に申し訳ない。けれど父親だって、神様だって出来ないことは出来ない。それはどうしようもないことなのだ。 一週間ぐらいかけて、便箋二枚に色んなことを書いた。お前が高校生の頃、大学進学を諦めさせて悪かったと思っていること。翔太郎の就職活動に協力してくれたことに対する感謝の言葉。そして、ちょっと迷ったけどめぐりは今ひょっとして大学に入ろうとしているんじゃないか?ということも書いた。俺にはへそくりがあるから、少しなら金銭的な協力も出来ると付け加えて。 書いた手紙はどうやってあいつに届けようか悩んだが、あいつの部屋に勝手に入るのは躊躇われたし、他に上手い方法も思い付かなかったので、結局下駄箱の中のあいつの靴の中にそっと忍ばせることにした。お前は中学生か!というツッコミが聞こえてきそうだが、この際あまり深く考えないようにしておく。 これでことがいい方向に向かえば良いな、と俺は澄んだ秋空に祈った。
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