めぐりside

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めぐりside

弟の顔を見るのは、あいつが確か成人式の折に帰省した時以来だから多分二年ぶりぐらいだと思う。思えばあいつは向こうの大学に通っていた頃は、ろくすっぽ実家に帰って来なかった。多分四年間で、三回とか四回とかそれぐらいだったと思う。 今日は三月の三十一日。明日から四月。世間的にはすっかり春の気分だけど、うちの玄関には未だ灯油の入った携行缶やダンロップの長靴なんかが置いてあるし、外に出ればぐずぐずとした大気には雪のにおいが混じっているし、この町には濃厚な冬の気配がまだそこここに佇んでいた。 夜八時を過ぎた頃、あいつは帰ってきた。深緑色のくたびれたネルシャツに、黒いエナメルのダウンジャケットを羽織り、肩にはぱんぱんに膨れたアディダスのボストンバッグを引っ掛けて居間に入ってきた。お父さんとお母さんは「おかえり」とまるで腫れ物に触れるような口調で声を掛けた。それに対して翔太郎は「あぁ……」だか「うん」だかよく聞き取れない返事をし、床にバッグを下ろした。私はダイニングテーブルの椅子に座りながら、頬杖をついてその様子をただただ何も言わずに眺めていた。 「ご飯は食べてきたの?」 とお母さんが翔太郎に聞いた。 「……いや」 「なら、食べな。あんたの分も一応作って取っておいたんだから」 「あぁ」 あいつは曖昧な返事をして、ダウンジャケットを脱ぎ適当にボストンバッグの上に放ってソファに腰を下ろした。お母さんは冷蔵庫からラップのかかった小鉢やら、ポトフやら魚の煮付けやらを取り出しレンジで温め始めた。私は弟の顔をそっと見た。死んでんじゃないの?ってくらい青白くて、唇もまるで氷雨にでも打たれたかのように色が薄い。髪もぼさぼさ乱れていて顎には無精髭が生えている。全く、大丈夫なんだろうかこいつは、と私は思いため息を吐いた。 やがて翔太郎が夕飯を食べ始めると、私は今を出て二階にある自分の部屋へと向かった。明かりをつけ、石油ストーブもつける。やがてストーブは熱風を吐き出し、部屋の中は灯油が燃焼する甘いにおいで満ちた。私はベッドに寝転がり毛布に包まった。訳もなく苛立たしかった。あいつが就職活動に失敗したという話は聞いていた。これからどうするつもりなのかは分からない。考えるだけで頭が痛くなりそうだ。私はポケットからスマートフォンを取り出し、ラインで誰か友達にそんな思いをぶちまけようと思ったが適当な相手も思い付かず、また冷静に考えるとあまり意味のある行為とも思えなかったので結局止めることにした。 その後私はなるべく弟と顔を合わせないように気を付けながら、お風呂に入り歯を磨いて眠りに就いた。 私はマグカップにインスタントコーヒーを作り、自分の部屋へと持って来た。それを勉強机の上に置いて椅子に座る。そして大学受験用の英語の参考書を開いた。今日は長文問題を中心に解いてみようと思う。私はブラックのコーヒーを啜りながら、難易度がそんなに高くない問題から解き始めた。 高校時代、弟に進学を「譲る」感じで今の会社に就職した私だったが、今再びこうやって大学進学を目指している。と言っても高校卒業時からずっと目指していた訳じゃない。多分一昨年くらいからだと思う。私は子どもの頃からずっと薬剤師に憧れていた。小っちゃい頃、薬局で見た薬剤師さんがかっこよかったからというありきたりな理由だ。今でも薬剤師になるために県内の薬科大学を目指しているのだが、その理由は変化している。 それは、現在勤めているドラッグストアでキャリアアップをするためだ。もし大学に入学することが出来たら、今の仕事は続けつつ夜間部で通おうと考えている。もちろんそうなったら上長と相談してシフトを調整してもらう必要があるけれど。 学費のことも考えなくてはならない。入学金だけでも三十万円かかり、年間授業料は二百万円かかる。しかも薬学部は六年生なので、単純計算で一千万円以上かかることになる。調べたら、社会人の私でも日本学生支援機構による奨学金制度を受けることが出来るらしいのだが、それで全てが賄える訳ではない。教科書代や実習費用、交通費だってかかってくるのだ。今はなるべく生活を引き締め、お金を貯めることに専念しなくてはならない。 その後、私は眠い目を擦りながら二時間ほど勉強に集中した。 翌日は公休日だったので、近所の公民館で午前中から勉強をした。私の周りでは、夏休み中の高校生やら中学生やらが同じように勉強をしていた。私は少しばかり気まずさを感じたが、なるべく気にしないように努め青チャートの問題をひたすら解いた。 昼食を適当に取って、午後からもまた勉強して納得のいくところまで終わったら夕方の六時を過ぎていた。閉館まであと一時間である。部屋の中を見回すと、もう誰もおらず私一人だった。もうちょっとだけ勉強しようかなとも思ったが、お腹も減ったしもう帰ることにした。公民館の外に出ると、庭に植えられた松の木からひぐらしの鳴き声が聞こえてきた。空も藍色になっている。もう、夏も終わりだなと私はふと思った。 帰宅すると、お母さんと翔太郎はもう夕飯を食べ終わったらしく、お父さんはまだ仕事から帰ってきていないみたいだった。居間にはお母さんだけがいた。テーブルには私とお父さんの分の料理がラップにかけられて置かれていた。夕飯はクリームシチュー、肉じゃが、酢の物だった。料理はまだほんのりと温かかったので、私は席に着いてそのまま食べることにした。 「……めぐり、ありがとね」 とお母さんはソファに座って、テレビを見たまま私にぽつりと言った。 「いきなりどうしたの?」 私はちょっと笑って、お母さんに聞いた。 「いや、翔太郎のことよ。あの子のために就職先とか探してくれてさ」 お母さんは相変わらずテレビに視線を向けたまま、言う。 「……いいよ、別に」 私は素っ気なく、そう返した。その後は他愛のないおしゃべりをお母さんとしながら、私は夕飯を食べ終わった。その後はまた勉強しようかとも思ったけど、日中昼食を買った時にコンビニから貰ってきた求人情報誌を自分の部屋で眺めて過ごした。もちろん翔太郎に合いそうな仕事を見つけるためである。翔太郎の生活とか能力を考えて、良さそうな求人をメモ用紙に書き出す。全く、私は一体何のためにこんなことをしているんだろうとふと思う。あいつにこのメモ用紙を渡すのか。そしたらあいつはそれを受け取るのか。それでどうなるのか。結局は私の自己満足じゃないのか。そんな思いが頭の中をぐるぐると巡った。 翌日は十時からの出勤で、中番だった。相変わらず朝から暑かった。ロッカールームで制服に着替えている時、私は社員証を忘れたことに気付いた。鞄の中をいくら探してもなかったので、恐らく自分の部屋にでも置いてきてしまったんだと思う。 私はちょっと舌打ちをした。無くても別にそこまで困るものじゃないのだけれど(店長に言わなくちゃいけないぐらい)万が一失くしてしまったら少し面倒なことになる。それが少しだけ気がかりだった。そうだ。翔太郎にラインを送って私の部屋を見てもらおう。どうせあいつ一日中家にいるんだし。 もう出勤時間の五分前だったので、一番休憩中にでもあいつにラインを送ろうと私は考えた。 お客様対応が長引いてしまったので、私は四時前に遅い一番休憩に入った。机の上にお弁当を広げ、それをもぐもぐ食べながら翔太郎に向けてラインを送った。 ーーあんた今家? 悪いんだけど、あたしの部屋の床に社員証落ちてないか見てくれない? そしたらすぐに「はいはい」と返事が来た。どうせ居間で寝っ転がって、スマホをいじっていたんだろう。目に浮かぶ。 ーー早くしてよね、あたし今休憩中なんだから と、冷凍食品のからあげを口に放り込みながら、催促しておいた。 けれど五分以上経ってもまだ返事が来ない。お弁当ももう食べ終わってしまった。さすがに私の部屋を見てくれてはいると思うけど……。それにもしあったらすぐに見つかると思うけど……。 私はちょっと嫌な予感がした。ひょっとしてあいつ、私の部屋で何か大学受験に関するものを見たのかな?特に机の上には、参考書とか大学のパンフレットとかが置いてあったと思う。あいつがそれを見つける可能性は充分あった。 ーーねえ、まだ? 何してんの? と、私はラインを送った。 ーーあった。床に落ちてた。 そしたら、不自然なほどすぐに返事が来た。なーんか怪しい。 ーーあんた、あたしの部屋でなんか見た? ちょっと迷ったけど、私はそう聞いてみた。 ーー別に。なんも見てないけど? またすぐに返事が来る。これだけじゃ本当かどうかは分かんないな。 ーーそ。ならいいけど。ありがと これ以上やり合っても埒があかないだろうと私は思い、取り敢えずトークを終わらせることにした。一応社員証もあったみたいだし。私はお弁当箱を軽く水道で洗い、水を拭き取って鞄にしまい、水筒のお茶を一口飲んで休憩室を出ようとした。その時ポケットの中のスマートフォンがぴろりんと鳴った。ラインの着信音である。弟からかな?と思ったが違った。全然知らない人からのものだった。 ーーはじめまして。加治先輩の中学の後輩の福西と申します! 突然ラインを送ったりして本当にすみません。翔太郎君から連絡先を聞きました。 実は中学生の時、先輩に憧れていましてずっとお話がしたいと思っていました。びっくりしましたよね? すみません。けれどこの想いは本当なんです! 先輩が中学校を卒業してからもずっと一途に想い続けていました。先輩はもう覚えていないかもしれないけれど実は妹が怪我をした時に助けて頂いたことがあるんです! 十年前の話ですが、一度お礼をしたいのでよろしければ僕と会っていただけないですか? お返事お待ちしております。追伸、スパムじゃないですよ(*≧∀≦*) 私は何だかよく分からなかったけれど、これは分かる必要がないということだけは分かった。よって、送り主をブロックしついでにこのトークルームも削除した。そして今度こそ売り場へと戻った。 仕事が終わり、六時過ぎに帰宅した。三十分もしない内にお父さんも帰ってきたので、久しぶりに家族四人揃っての夕飯になった。私の勤務時間は変則的だし、お父さんも残業することが結構あるのでこれは珍しいことである。 「翔太郎、どうしたん?」 四人でごはんを食べている最中、突然お母さんが翔太郎に声をかけた。翔太郎を見ると、何も食べずにフリーズしている。なんだこいつと思っていると翔太郎がぼそっと呟いた。 「俺……月曜日から、ハローワーク行くわ」 私はちょっと、口を付けていた厚揚げの味噌汁を噴き出しかけた。 「俺……働くことにしたから」 そう付け加えると、翔太郎は何事もなかったかのようにかちゃかちゃと夕飯を食べ始めた。 「そ、そうか」 「そう……がんばってね」 お父さんとお母さんは面食らった様子で、そう言葉をかけて顔を見合わせていた。 「まあ、頑張れ」 何だかよく分からなかったけれど、とりあえず私もそう言葉をかけておいた。私はほうれん草のソテーをつまみながらそっと翔太郎の顔を見ると、顔色が悪くてまるでゾンビみたいだった。ははーん、やっぱりこいつさっき私の部屋で何か見たんだな、と私は確信した。ま、良い薬になったんじゃないかな。 その夜、私が自室にいるとドアがこんこん、とノックされた。「だれー?」と私が呼びかけると、「俺だよ、翔太郎。……ちょっと入ってもいいか?」と返ってきた。「いいよ」と私が言うと、かちゃっとドアを開けて翔太郎が入ってきた。 「なに?」 私はぶっきらぼうに聞いた。 「あのさ……姉貴面接対策の本とか持ってない? もしあれば欲しいんだけど」 「あるけど……。あんた、持ってないの? 公務員試験の面接受けたんでしょ?」 「一応あるけどさ、公務員の面接と民間の面接じゃちょっと違うんだよ」 「ふうん。いいけど。てか、もう面接のこと考えてるの? 早くない? 面接にこぎつけるまでも結構大変だと思うけど」 「いいんだよ、別に。対策は早い方がいいだろ?」 「……別にいいけど」 私は机の本棚から、かつて高校三年生の時に使った面接対策本を引っ張り出して弟に渡した。七年ぐらい前のものだけど。今でも使えるのかな、これ。 「ありがと」 弟はそう言って部屋を出て行こうとした。私はその背中に「ねえ、あんた夕方この部屋でなんか見たでしょ」と言った。弟は一瞬立ち止まると、「……別に」と一言告げてそそくさと部屋を出て行った。 それから二日後の夜。夕飯を食べ終わって居間で私と翔太郎二人きりになった。お父さんは残業で、お母さんはお風呂に入っていたのだ。ちなみに翔太郎は今日初めてハローワークに行ったはずである。詳しい話は聞いていないんだけど。二人少し離れてソファに座ってバラエティー番組を無言で見ていた。すると、唐突に翔太郎が口を開いた。 「母さんからさ、色々聞いたよ。探してくれてたんだって? 俺に合いそうな仕事」 私はため息を吐いた。お母さんめ、余計なことを。 「……べつに」 私は素っ気なくそう言った。 「あと、その……姉貴が俺のために大学進学を譲ってたこととか、ほんとは薬剤師になりたかったこととか」 そんなことまで喋ったのか、お母さんは。 「だったら……」 「え?」 「だったら、これからちゃんとしてよ……。ちゃんとハローワークで仕事見つけて働いてよ!」 私は語気を強めてそう言った。 「うん。……ごめん。一度ちゃんと謝っておこうと思って。今までだらだらしてたこととかもさ」 弟が言う。 「別に。あんたがしっかりしてくれればそれでいいよ。あと、私が大学に行けなかったのはあんたの責任じゃないから。それは気にしなくていいよ」 「……実はまだ諦めてないんだろ?」 弟が上目遣いで私を見る。私はまたため息を吐いた。 「……やっぱり見てたんじゃん」 「……うん」 弟はうなだれた。 「別にいいけどさ。私大学に行くから。来年の二月にある試験を受けるつもり。お父さんとお母さんにはまだ言ってない。……あ、もしチクったらどうなるか分かってるよね?」 私は弟を睨みつけた。弟はちょっと気まずそうに私から目を逸らせた。 「言わないよ。けどさ、なんか困ってたら俺にだけでも相談しろよ?」 その言葉を聞いて私はちょっと噴き出してしまった。 「ニートのあんたに何が出来るのよ」 「何か出来ることがあるかも知れないだろ? それに……家族なんだし」 翔太郎は照れくさそうにそう付け加えた。 「うん……ありがと」 私はそうお礼を言っておいた。 それからお風呂に入って、歯磨きをして、寝る前に少しだけ数学の勉強をして布団に入った。目を閉じると、先ほどの翔太郎の言葉がふいに思い起こされた。家族なんだし、か。なんだか私は恥ずかしいような、それでいて温かいようなむずがゆい気持ちになった。弟に良い就職先が見つかればいいなと私は祈った。オンユアマークス、と私は心の中であいつに向かって声をかけた。
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