第8話 彩葉のいない水曜日

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第8話 彩葉のいない水曜日

 大講義室に入り、いずみは腕時計を確認した。まだ始まるまで数分ある。顔を上げて座席を見回してみると、最初の週より少し学生が減ったように感じるが、多少、といった様子だった。しかしこの中に彩葉(いろは)の姿はない。いつもと同じ、出入口近くで数席並んで空いているところに腰掛けるが、リュックから教科書とノートを取り出してから、今日は彩葉が来ないのだったと思い出す。それだけで思わずため息がもれる。  今週会えない分、来週の講義終わりにはまたどこかへ誘おう。それなら夕食に――いや、最初の週と同じになってしまう。でも講義が終わってからとなると、今はもうだいぶ暗くなる。どこへ行くにしても暗闇の中家路につくのは怖いだろうし、ひとりで帰らせるのは不安が残る。家まで送れば良いのだろうけど、彩葉なら断るだろうし、そうもいかないだろう。じゃあ、どうしようか。などとひとり思考の海に流されていると、いつの間にか始まっていた講義は、いつの間にか終わりにさしかかっていた。 「あぁ、今日は少し早く終わってしまいましたね。じゃあ……この講義には全く関係ないけど」  講義室の三割が寝ていて、四割がスマホで遊んでいて、一割がそれこそ全く関係のないことを考えていて……。教授は、この講義室全体の八割を占める話を聞いていない学生のことなど気にしていないのか、つまらなさそうな雑談を始めた。 「僕はサボテンが好きで、育てているんです。クジャクサボテンという種類なんだけど。美しい花を咲かせる種だ、後で検索してごらん」  何となく、いずみはその話題が気になった。どうと言うこともない教授の日常の話だ、集中して聞いている人などゼロに近いだろうが、いずみは聞くべきだと感じたらしい。頬杖をついて外側に向けていたその顔を、教授の方へと向けた。 「おかしなことに、昨日の朝に花を咲かせてくれましてね。本来は五月か六月あたりに一度だけ咲くんだけど、今年は咲いていなくて……それが昨日、来たみたいなんですよ」  バサバサガタガタと大きな音を鳴らしながら、周りの学生たちは帰る準備を着々と整えていく。周りの学生が雑談のことをどう思おうが、早く帰りたいと思おうがどうでも良いが、もう少し静かに動けないものか。いずみはいらだちを押さえながら教授の声に耳を傾ける。 「咲く時期がずれるなんて、おかしいよね。でも、僕は嬉しくて」 「クジャクサボテン」  いずみは、謎解きのヒントを与えられたみたいに小さく呟いた。何か、意味があるのだろうか。 「それを何か良いことの前兆と捉えるべきか、それとも何か悪い予感に繋がるのか、僕にはまだわかりませんが」 「数ヶ月遅れの、開花……」 「僕はみなさんにこの幸福をどうしても伝えたくて、すみません、長話になってしまいましたね」  では今日は終わりです、教授は手元のパソコンを見ながらそう言った。言い終わるや否や、学生たちはさっきよりも騒がしい音を立てながら退室していく。教授は、この雑談を聞いている人などほとんどいないことを知っていて、続けていたのだろうか。  何となく、いずみはその場から立てずにいた。座ったまま、今のどうでもいい話の内容を反芻(はんすう)していた。温度や湿度をずらすことができれば、咲く時期もずれるのだろうか。サボテンは何をどう判断して、今咲くべきだと感じたのだろうか。それは、育てているあの教授への想いの類によるものなのだろうか。そもそも植物に、感情はあるのか?  もし教授の言ったようにこの不可思議な現象が、何かの前兆なのであればいいな。いずみは少し願うようにそう考えてもいた。それを聞いた自分たちにも、何か良いことが舞い降りてくるならいいな。間違っても誰にも――周りの知らない学生のことはどうだっていいから、少なくとも教授と自分たちだけでも――悪いことなど、起きなければいいな、と。  ハッと我に返り、いずみが帰る準備を始めたころ、教授がいずみの横で止まった。 「ありがとうね。僕の話、聞いてくれてたでしょ」 「あ、いえ……そんな」 「じゃあ、また来週」  その柔らかな笑顔に、何となく、安心感を覚えた。彩葉が来ないなら講義に出席する意味なんて、大学に行く理由すらない、そう思っていたいずみの考えは少しずつ溶かされていった。気付けば笑みを浮かべていた。
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