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「あのね、わたし、ものを見たり、聴いたりするとね。ついつい思いついちゃうの」  彼は隣で少女のように泣きじゃくるわたしを優しく抱き寄せてくれた。背中をさすったり頭をなでたりしてわたしを落ち着かせようと必死だった。 「うん、それで、何を思いついちゃうの」 「わたし、毎日布団を押入れから出すときにね。ずっと言ってったの」 「何を?」 「布団が……」 「布団がどうしたの?」  わたしは後ろを振り返り、放り出された布団を見ながら言った。 「布団がふっとんだ」  わたしの大好きな羽毛布団は、羽が生えたのではなく、何かに吹き飛ばされるように大きく宙に舞い上がり、そしてまた床の上に落ちた。 「え?」  彼が驚くのも無理はないし、まだ信じられないのも当然のことだ。 「布団が吹っ飛んだ!」  わたしはさっきよりも大きくはっきりした声で叫んだ。すると布団は文字通りに吹っ飛んだ。 「えぇ、えぇ、冗談よしこさん」  わたしは凍りついた。こんな場面でよくもそんなオヤジギャグが言えるものだと。 「こんなときに冗談よしてよ! わたしの名前をギャグにしないで!」  わたしは子供の頃から自分の名前をいじられるのが嫌いだった。好きで好子になったわけじゃないのに。まだ花子のほうがよかったと本気で思ったものだ。  彼はわたしが本気で嫌がっていることを気づいていないようで、諭すようにわたしに言った。 「嫌いじゃないよ。好子って名前も、冗談も。俺もさぁ、つい言っちゃうんだよ。オヤジギャグ。MCとかでついついそれが出ちゃって大スベリしちしてメンバーからよく叱られたよ」 「そうなの?」  確かに彼の駄洒落にはセンスのかけらも感じられない。もしかしたら場の空気が読めない人なのかもしれない。 「だからずっと我慢してる。で、家に一人で居るときは、そんなことばっかり言っている。たとえばイカが――」 「ダメ! それはダメ!」  もう遅かった。わたしは口に出さずともその能力を発動させてしまう場合がある。布団が吹っ飛んだのように日常的に使っていたものは、よりその傾向がある。呪文の上塗りのようなものなのかもしれない。二人の視線はテーブルの上に向けられていた。  イカそうめんが仁王立ちでこちらを睨んでいる。 「嘘だろう。イカが怒ったのか」 「ごめん、さっきまではイカがイカスぜぇって頭の中で言い聞かせていたんだけど」 「イカが怒るとどうなるの?」 「ああなっちゃうと手がつけられないのよ。時間が経つまで」 「もしかして、10分間仁王立ちしてるのかな……イカだけに足が10本」  なんてつまらないことを思いつく人なんだとわたしは幻滅した。 「そんなわけないでしょう」 「時間、計ったことあるの」 「ないわよ」  彼は腕時計を覗き込みながら言った。 「時計で時間計ってみようか」 「ほっとけい」  すっかり気が抜けてしまったわたしは、思いついたことを躊躇なく口にした。彼の腕時計が吹っ飛んだ。  ここは笑うところなのか、謝るところなのか。  ただ、わたしは彼に関してひとつだけ確信していることがある。それは電話番号を交換しても意味がないということだ。  おあとがよろしいようで。
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