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「何だい、こンな所でひっくり返って。昼間っから酒でも煽ってなさるのかい?」
人間の牝にしちゃァ随分と艶っぽい声で、旦那に声を掛けてきた。
旦那は絵の事以外はてんで朴念仁ときてるんで、目を白黒させちまッておどおどとするばかりだ。
「否や……俺は……腹が減って……」
「何だい、喰い詰め浪人かい? 仕方がないねぇ」
女は袂から饅頭を一つ取り出して、旦那に寄越した。
ついでに妾にも畳鰯を差し出す。
「アンタ、この仔に礼を言ッときな。この仔があんまり鳴くんで、妾様子見に出たんだよ」
「かたじけない……」
何とも情けない声で礼を言うと、饅頭をもさもさと口に入れて……噎せ込んじまった。
「何やってんだい! 落ち着いて食べなよ」
女は背中を擦ろうと近付いて、何かに気付いた様に止まッちまった。
目を白黒させる旦那をまじまじと見て、豆鉄砲でも喰らった顔をする。
暫くして旦那が落ち着くと、女も正気付いた。
「全く面目次第も御座らぬ。折角斯様な施しを……」
「善いのサ、そんな事ァ。饅頭も畳鰯も、ご贔屓さんからの頂きモンだからね。其れよりアンタ、その額の痣はどうしたんだい?」
旦那の額の左ッ側に有る蝶々みたいな痣を指さす。
「生まれついて有るものだが……此れが何か?」
「……そうかい。アンタ名前は?」
「旗本の三ツ木家次男、三ツ木慎之介と申す」
名を名乗ると、女は驚いた様だ。
そりゃア其うだ、喰い詰め浪人だとばかり思ってた相手が直参旗本……ッても現代のお人にゃわからねぇでしょうな。
まァ程々金持ちのお侍の家だと思って下さいな。
そこの坊っちゃんときた。
驚くのも無理はないねぇ。
「何だってそんな家の若様が、こンな所で行き倒れてンだい?」
「俺は絵を描くのが好きでな、つい夢中に成ると寝食を忘れてしまう。この先の絵描きの師匠の家に向かう途中だったのだが……」
まるで悪戯を咎められた悪童みたいに小さく縮こまる旦那を見て、女はからからと笑った。
「仕方のないお人だねェ。アンタ、一体どんな絵を描きなさるんだい?」
「美人画を……其うだ、其方を描かせてはくれぬか? 屹度善い絵が描けるに違いない」
その女は婀娜っぽくはあったが、美しくも有った。
女に慣れぬ旦那が描く美人画にゃあ足りぬ、牝の香が匂い立つようだ。
「描くのは結構だが、妾は寝子も金猫。タダでは駄目だし、安くもないよ」
金猫ッてぇのは、吉原の公娼とは違って両国辺りの私娼の格の事でサァ。
金猫抱きたきゃ金一歩、銀猫抱きたきゃ銀ニ朱ってなもんで……そうさね、金猫が現代の3万円、銀猫がその半分くらいかね。
「其方遊女であったのか。では今宵そちらへ伺おう」
「正気かい、旦那。態々絵を描く為に女郎買おうなんて!」
冗談だとでも思ったンだろうね、女はまたからからと高笑いし為すったんだが、世間知らずの旦那の事だ。
真面目も真面目、大真面目と来た。
「何処へ訪ねれば善い? 俺は作法を知らぬ故、其方教えては呉れまいか」
ポカンと口を開けちまッて、旦那を暫し見詰めると女は婀娜な笑いを浮かべた。
すぅと手を伸ばし、脇の建物をべんと叩く。
「此のときわ屋ッて云う猫茶屋で、若紫って女郎を買いたいと言って呉れりゃァ、話の通るようにしておきますよ」
「若紫とは大層な。まるで吉原の花魁の様な優美な名だな」
たかが私娼の名前にしちゃァ大仰で、さしもの旦那も驚いたようだが、若紫はふふっと嘲笑うだけだった。
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