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デイリーキャット
俺は最近、そこの路地裏をすり抜け三つ目の角を曲がって、酷い汚水の臭いのする細道を突き当たった所、薄汚れたドラム缶が積んであるからそれを登頂して、塀を越えた先にある庭を好んで訪れている。俺がそこを訪れるのは他でも無い、食物にありつける可能性の高いからである。俺は今日を生き抜くのに必死なのである。理由は分からない。生き延びる必要のある、理由のことである。どうしてそんな奇妙な事に考えを過ぎらせるのかと言えば、以前通りすがりの野良に尋ねられたことのあるせいである。黒い野良であった。この野良の言うことには、一理あった。確かに、生き延びよう生き延びよう、と物心ついた頃から——いや、物心つくより前からか知れない、無性に考えていたものである。けれどもその理由は、如何なるものとも知れない。ただそれが自明の理であるように、生き延びよう生き延びようと心がけている。そうして、その理由が一向に不明だと知れた今になっても、やはり生き延びよう生き延びよう、と働くのである。だから、実際日々ここへ足を運ぶのは、生き延びる為に他ならなかった。
野良の暮らしぶりとは酷い有様である。時には腐臭のする生ゴミを漁っては食い、腹を下して苦しむことがある。悪い虫を食って、これもまた同様に強烈な腹痛に襲われほとんど意識が朦朧とする中地べたに這いつくばることもある。それでも一旦気が晴れて、通りを四つ脚でのそのそと歩いていると、随分と気持ちが良いものである。生きているとは素晴らしいのだ、と晴れの空を見上げる。これが生き延びようと言う理由かも知れない。
しかし幸運の野良は、稀に世話をしてくれる人間を見つけて、餌を与えられることがある。俺自身、痩せ細って餓死した野良を何匹も見てきたところから考えるに、そういう野良は大分と恵まれている。そしてとうとう、俺もそういう人間にありついたのである。
方法は簡単である。この庭から戸口にちょこんと座って、にゃあと物欲しげに鳴くのである。大抵は三つ四つ鳴くと、それまでには例の婆さんが出て来て、世話をしてくれるのだ。
そもそもどうして俺がこの家に辿り着いたのかと言えば、それは俺にかつてあったとある先輩のお陰である。先輩は、先輩の言うところによると、不治の病というやつに侵されていた。先輩は死際に——死際とは言っても、俺の眼にはぴんぴんしているように見えた——この餌場を教えたのだった。ずっと自分だけが使っていて秘密だったが、どうせ死ぬんなら、容姿がそっくりで弟みたいなお前に教えやると、そう言って伝えてくれたのだ。お陰で俺は、泥水を啜ることも、原因不明の目眩や腹痛に悩まされることも無くなって、解放されたわけだ。
婆さんは最初俺を見た時、きょとんとした顔をしていた。目をまん丸くして、俺を覗き込むから、俺は試されているのだと思って、じっと視線を逸らさないようにした。誠意の気持ちが本当だと、伝えたかったのだ。ところが婆さんは、次の瞬間あっという間に緊張を解いてため息をつくと、「そうかい」と呟いたのだ。
「そうかい、そうかい」と反復した。俺は、呆れられたのだと思った。が、婆さんは存分に餌をくれた。それでもって、今に至る。
俺とすれ違う野良は、嫌な顔でこっちを見る。以前よりも大分容姿も向上したと思う。酷い臭いもとれたと思う。ところが、どうも疎ましい視線を送られる。大方、妬まれているのだろうと思った。行き違いざま前脚を蹴られても、ちっとも気にしなかった。気にして反抗するだけ無駄だと思った。気の立っている野良と喧嘩をしても、腹が減るだけで良いことは無いのだ。
ところで、こんな俺にも親友がいる。名前は寅くんと言う。普通野良には名前なんて贅沢なものは無いのだ。けれども、俺は縞縞模様のこの野良が愛くるしいから、寅くんと名付けたのだった。寅くんの方は、無論俺のことを、おい、とか、お前、なんて風に呼ぶのだ。これは別段薄情なことでも何でもない。野良界隈では当たり前のことだから、気にもならない。
寅くんとお互いに匂いを嗅ぎ合うと、「大分小綺麗になったな」と言われた。
「そうかな」
「そうだよ。君、近頃自分が他の野良からどう言うわれているのか知っているか」
「いんや」
見当もつかないから少し考えて、「何か言われてるのか?」と問うた。
「『飼い猫だ』と言われている」
俺は寅くんのこの報告に仰天した。自分が飼い猫なんて大それた身分に見られるとは、想像だにしなかった為である。
飼い猫と言うのは当然野良に疎まれていて、猫の風上にも置けないとされている。それなら近頃の他の野良の、自分に注ぐ視線の好ましくないのにも頷ける。
「そうなった覚えは、無いんだがな」と俺は弁明した。
「けれども、やっぱり小綺麗じゃないか。風呂にでも入っているのか」
実際婆さんに水を浴びせられることがある。あれで大方の汚れは取れているのか知らん。
「風呂なんざ、入ったこともないし、入りたくもないや」
「同感だ」と寅くんは頷いた。
「でも君、やっぱり、全体としてどうも、随分艶々じゃないか」
「そうかな」
いくら寅くんが相手とは言えど、先輩から受け継いだ餌場のことを教える訳にはいかなかった。それは紛れもなく、自身の生活の楽の為か知れなかった。どう罵られようと良い。楽を優先して、何が悪い。けれどもきっと、自分も何かもし「不治の病」というようなやつに侵されるようなことがあったなら、その時は他でも無い寅くんに教えてあげようと、そう思う次第であった。
寅くんとは別れて、また別の日、俺はとぼとぼと四つ足で静かに歩いていた。ほとんど俯いて、自分の行く一寸先の地べたばかり見つめて歩んでいたのだが、途端に脇の道の方で、どわと喚声がしたので驚いて振り向いた。
人が皆、建物の前に集まって遙か上空を見上げている。何を見ているのだろうと思って、俺も一緒に上向くと、ビルの上にはほとんど点になったような人影があった。俺にはその光景の、一体何が面白いのだか良く分からなかった。ところが次の瞬間、その影は枠を飛び出して、みるみるうちに加速して地上へと降って来た。俺は、あっと思った。いくら人間でも、あの高さから落ちてはひとたまりも無いだろうと思った。血飛沫が群衆の背丈からはみ出て見えて、悲鳴が上がったので、俺はようやく事の顛末を理解した。気が動転して、慌てて通りを逸れ、陰に隠れてしまった。
誰かに突き落とされて、殺されたのだろうか、いや、違う。そんな様子は無かったのだ、とすればあの人間は、自ら落ちて死ぬことを選んだのだ。俺は途端に、生き延びていることが何だか恥ずかしくなってきた。しかし、自分から命を絶つなどという行いは、聞いたことが無い。
「えっ、自殺?」
そう言う人の声が耳に入った。ああ言うのを、自分で自分を殺す、『自殺』というらしい。
寅くんに早速報告してみた。
「嘘をついちゃあいけない。そんなことがあるわけないさ。せっかく生きているのに、わざわざ死ぬ意味なんてどこにある?」
「その通りだ、どこにも無いのだ」
俺は気を紛らすように、強く、何度も頷いた。
「ところが、本当にその人間は死んだのだ。作り話なんて聞かせるような柄じゃないだろう? 信じてくれ!」
「……信じるにしても、」
寅くんは納得がいかない様子で首を捻った。
「それじゃあ、俺はどうなるんだ? お前にしてもそうだ。必死で生きているのに」
「そうなんだよ」と俺は心底同意した。
「おかしな話なんだよ。俺らはこれだけ生きたい、生きたいと働き回るのに、最も安泰に生きられる——言わば夢の暮らしだよ、何度人間になりたいと願ったことか、その人間が、わざと死ぬんだよ。これ程おかしな話はあるまい」
「うむ。——その人間だがね、」と寅くんは途端に声を潜める。
「やっぱり、諸悪の根源は人間だということに、決まったらしいよ。野良の会議で、やっぱり、人間のせいで、俺たちが不遇を被るんだと」
「何?」と俺は素っ頓狂な声を上げた。どうして人間が悪いのだ? と口をつきそうになった。
「だからね、近々野良で反乱を起こそうじゃないかという動きが、ある。君も加わらないか」
「君もって……寅くんは出るのか」
寅くんは、徐に頷いた。
「どうせこのままじゃ、暮らしぶりは変わらないよ? 苦しいのにはもう御免だ。なあ、そうだろう? 君も一緒に……」
俺は、遠慮しとくよ、とも、じゃあやろう、とも答え難かった。俺の置かれた状況を察してみてくれ! 寅くんの信頼を失うわけにはいかない、ところが婆さんを切り捨ててはもう安穏な暮らしは続かない。それにそこまで、人間が悪者だとも思わない——いや、婆さんに出逢ってみるまではどうだったろう? 思い返してみると、良いとも悪いとも考えていなかった。それは多分、偶々、俺は人間に悪い目に遭わされたことが無かったせいであろうと思う。寅くんはあったのか知らん。俺は暫く悩んだ後に、「考えさせてくれ」と発した。すると寅くんはちょっと目を見開いたがすぐにいつものとろんとした気概の無い様子に戻って、「分かった。十分考えると良い」と言って去っていった。俺は、早速あの庭へ向かうことにした。どういうつもりかと言うと、婆さんに会ってから、反乱とやらに参加するかどうか決めるのである。
いつもの路地裏から、一、二、三と数えて折れ曲がり、俺はちらと後ろを確認した。それから一目散に薄汚れたドラム缶を駆け上がって、日向の庭に下り立った。喉の奥から発声するようにして、「ニャオ」と鳴いた。ところが、三つ、四つ……五つと鳴いても婆さんの姿はなかなか現れなかった。俺は痺れを切らして、戸口の隙間からちょっと家の中を覗いてみた。しんとしていて人の気配は無い。野良が土足で人の家に踏み入れて良いはずは無いと思ったが、緊急を要する故、致し方無いと上がり込んだ。床に触れると歩を遣る度かちゃかちゃという音がして何だか新鮮だった。ずっと行って折れ曲がった箇所に、婆さんは寝転んでいた。俺はすかさず「ニャオ」と言った。大分深く眠り込んでいるらしい。俺と婆さんとの間柄は、それほど親密なものでも無かったから、起こすのには気が引けたが、やっぱり今度の場合も緊急を要すると言うのが理由で、俺は背を向ける婆さんの肩に手をかけた。婆さんは力無く、ごろんと転がった。やはり目を瞑っていた。どうも起きる気配が無い。特段、今すぐにでも餌が無いと困るわけでは無かった。勝手に家を漁って食物を盗み食うのは不道徳だと思ったから、婆さんが起きるまで待つことにした。俺は婆さんの傍でペタと地面に腹をつけて、暫く目を開けて待っていた。けれどもどうやら昼下がりの良い時刻で、この部屋の内があんまりにも静かで呑気なものだから段々とうとうとして、安心し切って眠ってしまった。迂闊だったけれど、随分心地の良い睡眠であったことを覚えている。
目が覚めたのは聞き慣れない人の声のせいであった。まずいと思う間に、俺は誰かの腕の中に抱かれていた。そこはいつの間にか外で、俺は下ろされ、見慣れぬ少年が俺の頭を撫でた。少年は「達者でね」と言うと、玄関の方へ舞い戻った。俺は少しの間、そこで呆然としていた。婆さんは一体どこへ行ったろう、ここはどこだろう? 夢でも見ていたのかと思うけれど、どうやらこの玄関は、あの婆さんの家の表口らしかった。俺はなあんだと安心して、また明日訪ねれば良いやと思って寝ぐらへとことこ歩いて帰ったのであった。
翌朝、寅くんに急かされるより先に、と思って、婆さんの庭へと急いだ。よじ登って塀から覗くと、何やら騒々しい。黒い服に身を包んだ人たちが、そこらを行き来している。昨日の少年もいた。俺はこの少年を頼ろうと思って塀から飛び下りていった。少年は俺に気がつくと、ああと言って、慌ただしそうな一人を呼び止めた。
「猫……」
「何? 今は構ってられないわ」
しかしこの女の人間は、俺に目を留めると、「ああ」と嘆声を漏らした。
「おばあちゃんの、可愛がってた猫ね。……いや、そっくりだけど、やっぱり違う猫ね」
女はしゃがみ込んで俺を撫でてくれた。「にゃ」と鳴くと、女はもう一つため息をついて言った。
「もうおばあちゃんは、ここにはいないの。いい? もうここへ来ちゃ駄目よ?」
婆さんがいないとはどう言う訳だろうと俺は不思議がった。けれども、人間は猫の言葉を理解できないので、意思疎通のはかりようも無かった。
「大丈夫だよ!」と少年が言った。
「これからは僕が面倒を見てあげる」
「無茶言わないの」
「だってね、お母さん」
少年は女を見上げながら言った。
「この猫は、最後までおばあちゃんと、一緒に居たんだよ? おばあちゃんの横に、寝ていたんだ」
それを聞くと、女は急変、突如として涙ぐみ始めた。そうして少年をひしと抱え込んだ。俺は不可解でならず首を傾げると、何だか居心地が悪くなってそそくさと退散してしまった。
寅くんと面会し、早速「決めたか」と問われる。
「やめておこう」と俺は言った。すると寅くんはちっと舌打ちして、髭を揺らして、「それなら君とは絶交だ」と言う。俺は慌てて「待ってくれ」と制した。
「絶交することは無いじゃないか、分かったよ。それじゃあ、反乱に参加する」
「よし」と寅くんは満足そうにして、「それじゃあ、初めの作戦を教えるぞ」と言う。
「数十匹の野良で、あちこちの家をあたって『にゃあ』としつこく煩く鳴いてやるのだ。そうすると餌をくれる所があるやも知れない」
俺は面食らって、「それでは反乱でも何でもないじゃないか」と言う。
「いんや、立派な反乱さ。敵の食料を奪うのだ。これが反乱でなくて何だ」
俺はほっとため息をついて、まあ色々あったが、やはりとかく長生きすることばかりが良いのだろうと考え、うむうむと二つ自分で頷いた。
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