「間違った感想」なんて無い

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 クラシック音楽の指導はどうしても「作曲家の意図を深く読み取って表現する」が主体で、個性や独創性は遠ざけられます。  でも、これが私にはどうしても、つまらなくて仕方ありませんでした。  既に亡くなった作曲家の意図を()む場合、「正しい解釈」というものが共通認識にあって、そこをひたすら目指していくことになります。  音楽に多様性がなくなったら、音楽が画一的(かくいつてき)に、没個性(ぼつこせい)になってしまったら、衰退(すいたい)していくと思いませんか。  クラシック音楽は衰退傾向だと思いますが、どうしても没個性になりがちな業界の体質も、影響していないでしょうか。  ポゴレリチのようなピアニストはなかなか現れません。異端児(いたんじ)としてのデビューで、あまり尊敬されていません。目指す若手がいるとも聞きません。クラシック音楽のピアニストという文脈に合っていないのでしょう。  独創的な解釈を披露(ひろう)できるほどの最高峰(さいこうほう)のピアノ技術を習得するには、ストイックで長期に及ぶ過酷(かこく)な訓練が必須ですから、その前提と破天荒(はてんこう)な気質は普通、両立しないのかもしれませんね。  でも私は、若き日のポゴレリチが()せた「独創的なショパン解釈」の衝撃を、忘れることはありません。  私が面白い! 素晴らしい! と感じるのはいつも「独創性」です。だから解釈も、感想も、独創的なものを書きたいし、読みたいし、送られたいです。読み手の人生、個性が深く反映された感想に()(みだ)れる世界が好きです。  感想に間違いなんか無いと思います。作者の意図なんて、分かっても無視しちゃいましょう。作品を介した自分語りを私は読みたいし、書きたいです。  読者一人一人の人生にとって作品というものが、私的で密な、プライベートの存在になってほしいと思います。  個性的な解釈があふれていくと、小説はどんどん面白くなり、自由な解釈がまた他の読者に伝わって、人に何が伝わっていくか予測不可能となり、可能性は未知数になるのではないでしょうか。長く愛されて熱く語られ続けた『新世紀エヴァンゲリオン』などの、映画の名作のように。  小説と解釈の組み合わせは、無限の可能性を秘めているような気がしています。 (著者の意図を重要視する作者さまに対して、考えを押し付ける意図はありません。私と異なる価値観を感じる作者さまの作品には、なるべく意図を汲んだ感想を書くように心がけています)
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