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 エオンから帰ると、もう6時に近かった。急いで食品を冷蔵庫に収めながら、冷食の五目チャーハンをレンチン(電子レンジでチン)した。タイムセールの戦利品、揚げ出し豆腐とカボチャサラダを器に移し替え、フリーズドライの玉子スープを用意したところで、ママに声をかけた。  夕飯のあと、普段通りお風呂を済ませて、夜10時には2階の自分の部屋に入る。カーテンを捲って外を覗けば、クッキングスタジオの天窓が明るい。まだママが過ごしているのだ。経験上、深夜0時を回るまで明かりは消えない。  あたしはスマホのアラームをセットしようとして、新着のメッセージが届いていたことに、今頃気付いた。 『俺、初めてレギュラー取れた。13日の2時から、中央体育館で練習試合するんだ』  受信時間は、3時半。ちょうどタイムセールの時だ。あんな人だかりの中で、着信音なんて聞こえる訳ないじゃない。タイミングが悪いのは……全く、タケらしい。 「もぅ……明日でいいか」  既読スルーにするのは気まずいけれど、明日も朝練があるはずだから、夜中の送信は止めておこう。それに――何故だかオレンジ色のコートが頭の片隅を横切って、胸の奥がキナ臭くなったから、慌てて不穏なイメージを追い出した。アラームを午前3時にセットして、ベッドに潜り込んだ。  「KANBARA(カンバラ) COOKING(クッキング) STUDIO(スタジオ)」――プレートを見下ろして、ドアノブに手をかける。2階の窓から、天窓の明かりが消えていることは確認済みだけど、入室するとなると足が固まる。深呼吸を繰り返して、ノブを回した。  暗くはなかった。天窓に引っかかった満月から、淡い光が降り注いでいる。作業台のステンレスが柔らかく受け止めて、乳白色の湖面のようだ。  薄明かりに目が馴染んでくると、室内の細部まで見えてくる。部屋の奥――正面に本棚があり、その上の壁にママの調理師免許状や受賞したコンテストの賞状の入った額縁が飾られている。かつて入室を禁じられた空間は、幼少期に刻まれた記憶ほど恐ろしくはなかった。  本棚には、ママが書いたレシピ本だけでなく、インタビューやレシピが載った雑誌なんかも並んでいる。小さな記事をスクラップしたファイルまで揃っていて、ここにはママが料理研究家として歩んできた時間が凝縮されていた。あたしは目を凝らして、本のタイトルを読む。ええと、初……初……、あった! 「わっ、ちょっ、待って待って!」  少し背伸びして、棚の上の方からお目当ての本を抜き取った。けど、下の棚の本が引っかかり、バサリと落ちてきた。  カターン。 「いたた……」  慌てて受け止めたけど、側にあった椅子を倒してしまった。オマケに尻もちまでついて。 「え、なに、これ……」  床の上で開いたページを見て、固まった。レシピ本でも雑誌でもない。まだ若いパパの笑顔と、幼稚園から小学校低学年の小さなあたしがそこにいた。ママが、このスタジオに籠もり切りだった時期の、一緒に過ごせなかった家族の姿が収まっている。 「ママ……」  ここで毎日、独りで――。  拾い上げたアルバムを抱き締めて、あたしは泣いた。
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