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 翌朝、ご飯の片付けを済ませると、あたしは近所のスーパーに走った。買い忘れがあった訳じゃなく、新たに必要な食材が出来たから。  トントン。 「ママ、入るね」  ノックの返事を待たず、ドアノブに手をかける。心臓がドキドキする。 「ママ」  思った通り、部屋の奥にママはいた。本棚の前で椅子に座って、膝の上でアルバムを開いている。 「……なんの用」  慌てるでも怒るでもない、沈んだ掠れ声。俯いた姿勢のまま動かない様子は、少し前のあたしなら、拒絶されているんだと感じたはずだ。 「ママみたいに出来なかったけど……一緒に食べよ」  足元に注意しながら側まで進み、茶色の塊が乗った皿を両手で差し出す。しばらくジッと見詰めていたママは、グッショリと濡れた顔をあたしに向けた。 「……苦いわ」  あたしが『初めてさん』のレシピ本を見て作ったティラミスを一口食べると、ママは眉をしかめた。 「うん。コーヒー、入れすぎたのかも」 「砂糖、抜いたんでしょ」 「ちょっとだけ入れたよ」 「あなた若葉マークなんだから、アレンジなんて早過ぎるわ。ちゃんとレシピを守んなさい」 「そうだね」  本当は、レシピ本通りの分量で作っている。「初心者さん(あたし)」が、アレンジなんて器用な真似が出来るはずない。苦味を強く感じるのは、ママの味覚が、まだ上手く働かないせいだろう。 「あなたが覚えているなんて、思わなかったわ」  それでもママは、一口、もう一口と、苦いティラミスを食べ続けてくれる。どうしても唇が綻んだ。 「パパが言ってたの。『2月14日はだ』って」 「……そう」  大切な日には、ティラミスを。それはティラミスが「元気を出して」というメッセージを語源に持つ、「」だから――ママのレシピ本に書いてあった。 「ねぇ。ママは、どうして料理研究家になったの?」  いつか訊いてみたいと思っていた。ママに取っての「料理」って、なんなのだろう。 「パパが、後押ししてくれたのよ」  スプーンの手を止めて、ママは本棚の方に目を向けた。 「離乳食の頃、あなたは酷い偏食だったの。栄養バランスが悪いせいで発育が遅くて、肌もかさついて……私は自分の関わり方が間違っているんだと悩んだわ」  意外。現在のあたしに、食べ物の好き嫌いはほとんどない。 「健診のとき、保健師さんが離乳食の工夫を教えてくれて。試したら、急にパクパク食べるようになった。嬉しかった」  子どもが野菜を嫌うのは、舌が美味しいと捉える味のストライクゾーンが狭いからだと聞いたことがある。いわゆる「子ども舌」は、甘さしか美味しいと認識出来ない。やがて成長と共に舌は複雑な味に反応し、美味しいと認識出来る範囲も広がっていく。あたしに好き嫌いが少ないのは、幼い舌でも美味しいと感じられるように、ママが素材を工夫して料理してくれたからなんだ。 「美味しいものを食べたら、笑顔になるでしょう? 私の手で作ったもので、人を笑顔に出来たら、素敵だなって思ったの。それを話したら、パパはこの調理室を建ててくれて――」  それから、ママはあたしを真っ直ぐに見た。まだ赤い瞳が、また潤む。 「ごめんね、亜衣。あなたは、レシピ通りに作ったんでしょう? 私のこの舌、きっと罰が当たったんだわ。料理研究家として成功することに夢中になって、あなたにもパパにも寂しい想いをさせてしまった」  幼いあたしからママを取り上げた「料理」だけれど、本当はずっと家族の想いを繋いでくれていた。だったら、これからのあたしとママも繋いでくれるはず。 「ママ……あたしに、ママの料理、教えて。中学生になったんだから……もう火も包丁も危なくないでしょ。始めなきゃ、いつまで経っても『初めてさん』から進めないんだもん」  皿に残ったティラミスは、ほろ苦くて……笑いながら涙が溢れた。
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