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ー6ー
翌朝、ご飯の片付けを済ませると、あたしは近所のスーパーに走った。買い忘れがあった訳じゃなく、新たに必要な食材が出来たから。
トントン。
「ママ、入るね」
ノックの返事を待たず、ドアノブに手をかける。心臓がドキドキする。
「ママ」
思った通り、部屋の奥にママはいた。本棚の前で椅子に座って、膝の上でアルバムを開いている。
「……なんの用」
慌てるでも怒るでもない、沈んだ掠れ声。俯いた姿勢のまま動かない様子は、少し前のあたしなら、拒絶されているんだと感じたはずだ。
「ママみたいに出来なかったけど……一緒に食べよ」
足元に注意しながら側まで進み、茶色の塊が乗った皿を両手で差し出す。しばらくジッと見詰めていたママは、グッショリと濡れた顔をあたしに向けた。
「……苦いわ」
あたしが『初めてさん』のレシピ本を見て作ったティラミスを一口食べると、ママは眉をしかめた。
「うん。コーヒー、入れすぎたのかも」
「砂糖、抜いたんでしょ」
「ちょっとだけ入れたよ」
「あなた若葉マークなんだから、アレンジなんて早過ぎるわ。ちゃんとレシピを守んなさい」
「そうだね」
本当は、レシピ本通りの分量で作っている。「初心者さん」が、アレンジなんて器用な真似が出来るはずない。苦味を強く感じるのは、ママの味覚が、まだ上手く働かないせいだろう。
「あなたが覚えているなんて、思わなかったわ」
それでもママは、一口、もう一口と、苦いティラミスを食べ続けてくれる。どうしても唇が綻んだ。
「パパが言ってたの。『2月14日は結婚記念日だ』って」
「……そう」
大切な日には、ティラミスを。それはティラミスが「元気を出して」というメッセージを語源に持つ、「相手を元気づけるお菓子」だから――ママのレシピ本に書いてあった。
「ねぇ。ママは、どうして料理研究家になったの?」
いつか訊いてみたいと思っていた。ママに取っての「料理」って、なんなのだろう。
「パパが、後押ししてくれたのよ」
スプーンの手を止めて、ママは本棚の方に目を向けた。
「離乳食の頃、あなたは酷い偏食だったの。栄養バランスが悪いせいで発育が遅くて、肌もかさついて……私は自分の関わり方が間違っているんだと悩んだわ」
意外。現在のあたしに、食べ物の好き嫌いはほとんどない。
「健診のとき、保健師さんが離乳食の工夫を教えてくれて。試したら、急にパクパク食べるようになった。嬉しかった」
子どもが野菜を嫌うのは、舌が美味しいと捉える味のストライクゾーンが狭いからだと聞いたことがある。いわゆる「子ども舌」は、甘さしか美味しいと認識出来ない。やがて成長と共に舌は複雑な味に反応し、美味しいと認識出来る範囲も広がっていく。あたしに好き嫌いが少ないのは、幼い舌でも美味しいと感じられるように、ママが素材を工夫して料理してくれたからなんだ。
「美味しいものを食べたら、笑顔になるでしょう? 私の手で作ったもので、人を笑顔に出来たら、素敵だなって思ったの。それを話したら、パパはこの調理室を建ててくれて――」
それから、ママはあたしを真っ直ぐに見た。まだ赤い瞳が、また潤む。
「ごめんね、亜衣。あなたは、レシピ通りに作ったんでしょう? 私のこの舌、きっと罰が当たったんだわ。料理研究家として成功することに夢中になって、あなたにもパパにも寂しい想いをさせてしまった」
幼いあたしからママを取り上げた「料理」だけれど、本当はずっと家族の想いを繋いでくれていた。だったら、これからのあたしとママも繋いでくれるはず。
「ママ……あたしに、ママの料理、教えて。中学生になったんだから……もう火も包丁も危なくないでしょ。始めなきゃ、いつまで経っても『初めてさん』から進めないんだもん」
皿に残ったティラミスは、ほろ苦くて……笑いながら涙が溢れた。
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