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 チーン。  電子レンジを合図に、ダイニングの椅子から立ち上がる。リモコンで、流れっぱなしのバラエティ番組の音量を絞る。静寂を打ち消す程度のざわめきがあればいい。リビングのドアを出て、左に18歩。薄暗い廊下の突き当たりには、プレートを嵌めた木目調のドアがある。「KANBARA(カンバラ) COOKING(クッキング) STUDIO(スタジオ)」――焼き印の文字が消えかけている。 「ママ、ご飯出来るよ」  トントン、と形だけの合図をして、踵を返す。庭に張り出す形で増設されたそのドアの向こう側は、ママが「料理研究家・上原(かんばら)るみこ」の名で売れっ子になるまでの数年間、アットホームな料理教室として使われていた。天窓からは自然光が差し込み、大きな窓の外で表情を変える花木が季節の移ろいを教えてくれる。開放的で機能的な空間は、ママが書いた料理のレシピ本の表紙も飾っていた。  キッチンに戻ると、あたしは鍋つかみを嵌めて、レンジから耐熱皿を取り出す。黒酢あんの香りがブワッと広がる。適当に千切ったレタスと形の崩れたトマト、厚さの疎らなキュウリを盛ったボウルを耐熱皿の横に置く。粉末タイプの味噌汁の素をお椀に入れて、保温ポットからお湯を注ぐ。炊飯器から炊きたてのご飯を盛り付けたとき、リビングにママが現れた。 「今出来たところ。食べよ」  フラリと幽霊みたいな足取りで、あたしの向かい側の椅子を引く。彼女の前に茶碗を置いて、それから自分のご飯を盛って席に着く。 「いただきます!」 「……いただきます」  日直の如く挨拶を引き出して、味噌汁に口を付ける。豆腐とワカメとネギの入った、いつもの味。お徳用の小袋100袋セットは、あと一桁にまで在庫が減った。今度の日曜日は、スーパーに行かなくちゃ。確か玉子も切れていたっけ。それから、調味料は……。 「ごま油が強いわ」 「え?」 「この酢豚。最近のものは、ごま油さえ使えば、中華になると思っているのね」  冷凍食品の「レンジで簡単!本格中華シリーズ」の「具材ゴロゴロ黒酢あん酢豚」は、ママの口には合わなかったらしい。いや。彼女の口に合う冷凍食品なんてないのだ。 「『お客様の声』に言っておく」  あたしは灰色の気持ちを抑えて、甘酢で滑るニンジンを噛み潰した。本気でメーカーにクレームを送るつもりなんて、サラサラない。 「どうせ変わらないわよ」  つまらなさそうに呟いて、ママは箸の先で皮の繋がったキュウリを持ち上げた。数秒見詰めると、なにも言わずにシャクシャクと噛む。  モヤモヤしたまま、あたしは味噌汁を啜った。誰も見ていないテレビから、場違いな笑い声を垂れ流しにして、黙々と夕飯を進める。それは、今や我が家の儀式だ。 「ごちそうさま」  まだ茶碗の中に、白米が一塊残っている。あたしのあと一口を待たずに立ち上がると、ママはリビングを出て行った。
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