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#5 リアルBLの口から
その蟹がいるのだ。何でそれだと訊かれても、描いた俺ですら説明しづらいややこしい相手に向けた珍妙な落書きを。
それを見られてしまう。選りに選って、何で日本史を選択してるのか知らないが、そういう複雑な事情やオタク的要素を理解してくれそうにもない、素行に少しどころじゃなく問題がありそうなリアルBL(推定)に。
絶望しても止めることも出来ず、もう橘は椅子に手を掛けている。
ああもお前に描いたんじゃないし。茫然と見守る俺の先で、既に机に視線が向けられている。
橘の眉が怪訝そうに顰められた。整っているが故に冷たく見える相貌で、「ええ……?」と小さく呟いている。
大きな瞳が見開かれた。そして机に顔を寄せ、途端にぐっと口を覆う。
「うっわ、何か変なのあるし!」そんな台詞が飛んでくるのかと、俺は顔を背けて天を仰いだ。
でも、視界の端に残っていた橘の様子は、違っていた。
口を覆っていた両の掌から、隠しきれない、宝物を見つけた子供みたいな笑顔が、光が溢れるように零れでていた。
天を仰いでいた俺の顔は、知らず橘へ向けられていた。
橘がスマートフォンを取り出す。嬉しそうに綻ぶ唇で机に向けた。
『今までのは全部撮影済』。
撮り鉄みたいに何度も角度を変えてシャッターを切る。
そして見えてしまった。机に向けた携帯の背面、指の隙間から。
——六番目の敵の、ステッカーが貼ってあるのを。
「ユッキー、いつも何撮ってんの」
「ひみつう」
橘は着席し、落書きを見てもう一度吹き出した。そして楽しそうにそれを見つめながらごろごろ机に寝そべった。
指の中で軽快に回るシャープペン。
何描こうかなあ。
机にくっついた瞳が、そう心踊らせている。
「リョーウ、何やってんだよ。物理始まっぞ!」
ドアの外から、同中の祥之が呼んでいるのは一応聞こえていた。
だけど俺は、その場からまだすぐには動けずにいた。
その後、我慢できずに昼休みに社会科教室へ足早に向かった。というか途中、もう走っていた。
俺の指定席にいた厳めしい顔の蟹は、二匹に増殖しており、(やっぱり無駄に巧い。追加分が)
そしてその蟹が吹き出しで『戦が忙しくてお休みだったよ』。
落書きが中断していた理由は何となく解った。
それまでの授業は源平の一連の争いで三時間分時間を割いたのだ。そっちに夢中だったかららしい。
思い起こせば、そもそも落書きが始まったのもそれまでの政変が落ち着いたタイミングだった気がするし、落書きがない時は、そういえば何かの合戦が授業で絶賛進行中だった記憶がある。小学生か。
とどめのように、厳めしい顔をしたイケメン度のやたら上昇した蟹が付け加える。
『さみしかった?』
横にぷちぷち小さなハートを従わせて。
『ばか!』
その下に書いて、俺は社会科教室を後にした。
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