2: 一人ぼっちの帰り道

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2: 一人ぼっちの帰り道

 男子生徒たちと野球の話題で白熱していた 若林は腕時計を見て、黒板に貼り付けていた スポーツ紙を剥がし、丁寧に畳んだ。 そして黒板の日付を、 今日から明日の7月10日(木)、 日直欄に「鈴木・中野」と書き直し、 まだ残っている生徒たちに「早く帰れよ」と、 一言残して教室を出た。 香織は席に着いたまま、窓から胡桃と真美が 帰っていく様子を眺めていた。 そして傷だらけのランドセルの中に教科書と リコーダーを入れて、ゆるくなってしまった ランドセルの底の金具を閉めた。 『帰る時は中野さんを誘ってあげてね』 さっき、胡桃が唯と典子に帰り際に言った 言葉は香織にも聞こえていた。 というよりも、 いつもそう言って胡桃は帰るのだ。 〈別に誘ってくれるのを待っているんじゃ ない。ただ、まだ帰りたくないだけ......〉 香織は落ち着かない様子で、給食袋を ランドセルに付けたり外したりを繰り返し ながら、唯と典子の姿を何気なく窺っていた。 それを感じ取っている洋子は、 唯と典子が香織に近づくの阻むように背を 向けて話に夢中になっている。 「下校の時刻となりました。 校庭で遊んでいる人も、校舎に残っている人も 早く家へ帰りましょう。 これで、今日の校内放送を終わります」 スピーカーから、アナウンスと、 ドヴォルザークの「家路」が流れ始めると、 洋子の「行こう」のひと声で3人はそのまま 教室を出てしまった。 廊下から洋子の大きな笑い声が聞こえる。 きっと香織に向けての高笑いだろう。 香織は、小さな箱の中を行ったり来たりして いる水槽のメダカを見ながら10分程潰し、 そして誰もいない教室を出た。 Bコースは学校の裏門から出入をする。 この門の近くには小さな池があり、 半年前には人面魚がいると騒がれていた。 もともと世間で爆発的に人面犬が流行りだし、 人面魚、人面岩、人面蜘蛛にまで話が膨れ上がったのだ。 その為、あの時はいつ通っても誰かしら水中を 覗いて人面魚を探していた。 しかし今では、その存在すら忘れられた、 ただの静かな池に戻っていた。  香織の家は学校から20分程歩いた所にある。 入り組んだ住宅の間を入ると、弟の昇と宏が 水色のチョークで道路に○△□を一列に並べて 描いていた。 「あっ、お姉ちゃん! あのね、この○のところしか踏んじゃ駄目なん だよ。△と□を踏んだら負けなの」 香織は昇が説明した遊びには目もくれず、 そのまま通り過ぎた。 「あー! お姉ちゃん、 △踏んだ! 負けだよ」 4歳の宏が一生懸命に叫ぶ声に香織は一度振り 返り、そしてそのまま無言で家の方へ歩いた。 平屋の古い一軒屋の前には小さな畑があり、 トマトやナス、ピーマンが栽培されている。 その中で、2歳の佐知子が、シャベルとプリン のカップを使っておままごとをしている。 「さっちゃん、何を作っているの?」 「ハンバーグ!」 そう言って嬉しそうに佐知子は、 土の塊を香織に差し出して笑った。 香織は佐知子の作ったハンバーグを美味しい、 と言って食べる真似をしながら部屋に入った。  香織の机の上には、手巻きの鉛筆削りと、 クーピーやサインペンが一緒に入った鉛筆立てがある。 壁に貼られた時間割表には、昇が赤と青の ペンでいたずら書きをした、ロボットの絵が 描かれている。 香織はビーズや折り紙、白い貝殻などが入った 真ん中の引き出しから小さな手鏡を出して、 自分の顔を映した。 身長が低くて、体は痩せっぽちなのに、 顔は丸顔。 目は小さめだが、 クリクリしていて悪くないと思う。 でも鼻も口も気に入らない。 髪は真っ黒で堅くて多い。 胡桃ちゃんみたいに長くてサラサラな髪に 憧れるが、母親にすぐに切られてしまうのだ。  香織が鏡の中の自分を眺めていると、廊下 からバタバタと足音が聞こえ、香織のいる部屋 の襖を昇と宏が思いっきり開けた。 香織は鏡を持っている姿を見られないように、 そのまま2段ベッドに潜り込んだ。 「お姉ちゃん!  お母さんが卵を買ってきてだって~!   僕も一緒に行っていい?」 無視して布団から顔を出さない香織を、 昇が布団の上から力いっぱい揺する。 その度にベッドのスプリングがきしんだ。 宏はその様子をお腹を抱えて笑い、 畳を転げ回っている。 「やめてよ」 香織は一度顔を出し、昇の手を振り払って、 また布団を頭から被った。 しつこく揺さぶっても無反応になってしまった香織に昇は、あっかんベーをして「おかあさ~ん」と言いつけに行った。 宏も昇の真似をして、少し遅れてあっかんベー をして、走って昇の後を追った。 しばらくしてから香織は布団から出て、 鏡を机に仕舞い、ランドセルの中から帰りの ホームルームで配られたスイミング教室の プリントと3時間目に返された算数のテストを くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。
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