3: あこがれの先輩

1/1
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ

3: あこがれの先輩

 胡桃と真美はいつも家の近くの十字路で 別れる。 「今日、写真をママが取りに行くはずだから、 明日学校に持っていくね」 「うん。すごく楽しみ!  じゃあ、明日ね。バイバイ!」 真美が茶目っぽくウインクすると、 胡桃は口元を隠して笑った。 そして手を振って5歩進んだところで、 また振り返る。そしてもう一度、手を振る。 これは二人の親友としての約束事の1つ。 胡桃が家に帰ると、リビングから母親の 春子と3歳年下の妹、麗の笑い声が聞こえた。 「ただいま~」 「お帰りなさい」 「お帰り~! 今日のおやつは真っ白ケーキだよ」 「真っ白ケーキ? 何それ?」 「イモちゃんがね、ショートケーキの上に 飾るイチゴを別の器に入れていたら全部 食べちゃったのよ。 だから飾るものがなくて、真っ白ケーキ」 「え~ ずるい」 麗は「真っ白ケーキ」という言葉がツボに 入ったらしく、楽しそうに笑っている。 「イモちゃん」というのは、 麗の家族内でのあだ名である。 言葉を覚え始めた頃、何か欲しい物がある時、 「レイもちょうだい」と言いたいが言い切れず、「イモも、イモも」と言っていたからだ。 そして初めて絵を描いた時、歪んだ丸に顔と 手足が付いた絵で、ジャガイモを連想させる 絵だった。 そして現在もジャガイモが大好物な事から 「イモちゃん」と呼ばれている。 「さ、食べよ! ランドセルを部屋に置いてきなさい」 「は~い......」 胡桃は春子にせかされて、 口を尖らせながら2階の部屋へ行った。 そして、ランドセルを机の上に置き、 中からスイミング教室のプリントとテスト用紙 を取り出した。 胡桃は4つ折りにされたテスト用紙に願いを 込めてゆっくりと開いた。 65点…… このテストの平均点は55点。 難しかったのだ。 でも、算数がいつも平均点ぎりぎりの胡桃は、 70点以上でないと母に見せない事にしている。 何度見ても変わる事のない点数を指で弾き、 引き出しの奥のほうのファイルに仕舞った。 そしてわら半紙のプリントを手に持って、 ダイニングへ向かった。 「お姉ちゃん、見て、見て!」 胡桃が戸を開けると、麗が手招きして、 ケーキに向かって手を叩いた。 「名付けて、マーブルケーキ!」 春子はアイスティーを胡桃に差し出しながら、そう言った。 真っ白ケーキは、イチゴの代わりにピンクや オレンジ、黄色のマーブルチョコレートが 生クリームの上に並べられて、カラフルな マーブルケーキに変身していた。 春子が6等分に切り分けると、 麗は一番大きなケーキを取った。 胡桃が手を出さずに、アイスティーを一口 飲むと、春子は二番目に大きなケーキの皿に、 自分のケーキの間に挟まれているスライス されたイチゴを少し取って添え、胡桃に渡した。 「お姉ちゃん、いいな~」 「麗はいっぱい食べたでしょ!  ママ、夏休みにスイミング教室があるの。 後でサインしてくれる?」 「はいはい。もうすぐ夏休みね~」 「麗もプール行く!」 「麗は2年生だから、学校のスイミング教室は まだよね。だからパパに海に連れて行ってもらおうね」 「え~、やだ~。 だってパパ、麗の事を海の中に投げるんだよ! 前にいっぱい海の水、飲んじゃったもん。 しょっぱくて、口の中がヒリヒリした~」 「胡桃だって、何度も投げられたものね。 だから、上手に泳げるようになったのよ」 「そうだよ。イモちゃんも頑張ってね~」 海で娘をヒョイと抱えて容赦なく投げる父親。 そんな水泳の教え方、他で見たことも聞いた こともない。 傍から見れば、泳いでいるのか溺れているの か見分けがつかないようなフォームで体勢を 立て直し、先回りして大きな声で自分を呼んで 待っている父を目指して水をつかみ前へ進む。 波で体が思うように進まなくても、 父の差し出す手を見失わぬよう前へ進む。 少しずつ、少しずつ、 泳げる距離が伸びていく。 泳ぎだす勇気は無いくせに、 不思議と投げ出される恐怖心はなく、たどり着いた先の父の大きな体に必死にしがみつき、 海の中で父の体温を感じてホッとする。 そしてまた投げられる。 この繰り返し。 なんとか泳げていることに自分が気づき、 つま先立ちで立っている足を、自分の力で 海の底から離す勇気がつくと、フォームや 息つぎの修正が入る。 母が心配して、浜辺から父へ合図を出すまで 厳しい特訓は続くのだ。 その頃には、体は芯まで冷えて唇は病人の ように紫色。 小刻みに震えながら母のもとへ戻ると、 太陽の日差しで熱くなった大きなバスタオルを広げて包んでくれる。 これが最高に気持ち良い。 フカフカのタオルと背中をさすってくれる 母の手を独り占めしている優越感を味わって いると、ひょっこりと麗が現れ、 「ママ、のどが渇いた~」とあっさり母を 連れて行ってしまう。 「麗ね、 今日の算数のテストね、 100点だったんだよ。 先生が花丸付けてくれたの!」 「すご~い。後で見せてね」  胡桃は引き出しの奥にしまったテストを 思い出した。 私だって2年生の時は100点取っていたもん......  麗は小さい時から口が達者で、 喧嘩をすると胡桃はほとんど負けていた。 しかも、麗には噛み付く癖があり、喧嘩に 負けそうになると、腕や指を噛み付くのだ。 さすがに噛み付き返す事は出来ず、麗の腕を つねって反撃するのだが、余計に歯を立てる ので、結局痛い思いをして折れるのは胡桃の方 だった。 明るい性格で、愛らしい麗は、末っ子ゆえの 賢さもあり、負けず嫌いで甘え上手。 胡桃は自由奔放の麗は「無敵だ」と、 常に思っていた。 その反面、胡桃は自己主張が苦手で、 争い事を好まないので、いつも自分が一歩引く。 学級の係や学芸会の劇の配役も、他の子と かぶってしまうと、つい譲ってしまう。 余りものを引き受けても、それなりに楽しめ たし、いつまでも決まらない話し合いを続け るより自分が動くことで収まるならその方が 気持ち良く過ごせる。 そんな胡桃だが、5年生になったら、 ずっと憧れていた放送委員会に入ろうと 4年生の時から決めていた。  胡桃は4年生の時、「夏」というテーマで、 全学年で行われた絵画コンクールに、 画用紙いっぱいに散りばめられたヒマワリの花 を描いた。 水を吸収して茎を伸ばし、太陽を求めて蕾が 回り、大きく開花し元気を振りまくヒマワリ。 胡桃は自分が花から花へ飛び回り蜜を吸い、 夏を謳歌する蝶になったつもりで、 使い慣れた筆をすべらせた。 これが学年で選ばれ、 朝会で表彰される事になった。 しかしその日は雨。 外で朝会が出来ない時はテレビ朝会となる ため、胡桃は放送室に呼ばれた。 放送室の前で、入ってよいのか分からず、 小窓から中の様子を伺っていた時、遠くから 廊下を上履きで走るキュッ、キュッという 摩擦音が聞こえ、振り向くと教室の角から 6年生の柳原 竜司が突然現れた。 急遽、テレビ朝会となったため、校長室前に 掲示されていた入賞作品を取りに行き、 走って戻って来たのだ。 新校舎と旧校舎とでは廊下で使われている 床材が異なることを熟知している竜司は、 今度はワックスのかかった直線状の長い廊下を 滑るように走り、スキーのパラレル停止のよう に胡桃の横でピタッと止まった。 そして胡桃の名札に視線を落として、 自分の部屋かのように「入りなよ」と放送室の 重いドアを開けてくれたのだ。 朝会が始まる5分前、1年生から6年生までの 入賞した生徒が壁沿いに並んで立たされ、 名前を確認された。 竜司は6枚の絵を折り畳み式の長机に並べ、 美術評論家の口調を真似しながら、 「ほー、ほー、これは素晴らしい」などと 言って顎をさすり、 緊張している場を和ませてくれていた。 そんなおちゃらけている竜司が、 胡桃のヒマワリを目にすると急に黙った。 そして、まるで花を揺らすように優しく指先で 絵に触れた。 胡桃は竜司から目が離せない。 実際はとても短い時間だったのだろう。 しかし胡桃にとっては、とても時間がゆっくりと流れ、竜司が指先で起こした心地良い風を頬に感じた。 ヒマワリの傍には蝶が飛んでいる。 そして竜司と目が合っていることに気付いた その瞬間、 胡桃は学年が二つ上の竜司に恋をした...... 「早く持ち場に戻れ」と先生から頭を小突かれ た竜司は、みんなに笑われながらアナウンス マイクの付いた操作パネル前の回転イスに 座った。 そして先生たちとタイミングを計って、 音楽を流し、マイクの音量を調節し始めた。 その後も廊下やグラウンドで会うと、 竜司は胡桃に気軽に声を掛けてくれた。 照れてしまい何も話せない胡桃は、小さく 笑い、心臓が制御不能になる前に足早に その場を去っていた。 そして半年後の3月、 竜司は小学校を卒業してしまった。 5年生になった胡桃の心にはポカンと小さな 穴が空いてしまったようだった。 念願の放送委員になれた胡桃にとって、 放送室はとても神聖な空間で忘れられない場所だ。 それでいて、誰かに共有してしまうと、 淡い思いや竜司の面影が消えてしまいそうで、 真美にさえ話していなかった。  そんなある日、 帰りの通学路で胡桃は制服を着た竜司を見つけた。 「見つけた」というより、 なんとも説明しようもない気配を感じたのだ。 半袖の白いシャツにグレーのズボン。 大きなスポーツバッグを斜め掛けにし、男友達 と楽しそうに歩きながら距離を縮めてくる。 胡桃は真美が話しかけている声が一瞬にして 耳に入らなくなり、顔が赤面するのを感じた。 そして真美の手を引っ張り、 細い脇道に入って、近くの家の壁に隠れた。 「なに? なに? どうしたの?」 びっくりしている真美にどう説明すれば良いの か分からず、懇願の表情で口に指を当てて、 「シー!」とした。 そして竜司が友達と冗談を言い合いながら、 自分の目の前を通り過ぎるのを待った。 そして背中を眺めながら、耳目にしっかりと 一足先に大人になってしまった竜司の姿と声を 焼き付けた。 少しずつ離れていく竜司が、あっと言う間に 手の届かない存在になっていく。 気付かれないように、もう少し見ていたかった のだが、真美が興味津々の顔で胡桃を覗いて きた。 「どういう事? 知り合い?  え! もしかして胡桃ちゃん、 あの中学生が好きなの?」 「......うん。内緒だよ......」 「わ~! いつも好きな人はいないって言っていたのに、 やっぱりいたんじゃん! やっぱりね~」 「だってぇ...... 絶対に内緒だよ!」 「分かってるって!  で、どうする? こっそり着いて行こうか!」 「え~ ばれるよぉ。」 「大丈夫だよ! だってこの道、通学路なんだから普通に帰って るのと同じじゃん!  早く行こう見失っちゃうよ!」 それからオドオドする胡桃とワクワクしている 真美は、こっそり後をついて行き、竜司の住む 高台にあるマンションを突き止めた。 胡桃や真美の家から近く、同じクラスの友達も 住んでいるマンションだった。 そして真美の好奇心のおかげで、ポストの 名前から部屋の番号まで調べる事が出来た。  翌日、真美は教室に着くなり、 席に着こうとしていた胡桃の手を引っ張って、 廊下へ連れ出した。 「先輩のマンション、真美のマンションの エレベーターホールから見えたよ!」 「本当!?」 「ホントのホント。でね、使いかけのフィルムがあったから、マンションの写真撮っておいたよ」 「え~! 嬉しい!」 「でも現像に出したばかりだからもう少し待ってね」  胡桃はケーキの最後の一口を食べながら、 「明日持って行くね」という真美が別れ際に 言った言葉を思い出し、竜司の背中を思い浮かべた。  それからピアノの部屋へ行き、毎週金曜日に 通っているピアノの練習を始めた。 ハノンで指をほぐし、ツェルニー30番、 ソナチネと続ける。練習曲を弾き終えると、 好きな曲を好きなだけ弾く。 胡桃は宝物の一つの大切な楽譜を譜面台に 立てかけた。 感情を言葉にするのが苦手な胡桃は、 嬉しい時、哀しい時、怒っている時など、 小さな胸に何かが溜まり始めると、 ピアノに向かい、ただ好きな曲をもくもくと 引き続けた。 そしてピアノの白と黒の鍵盤に向かって 訴えかけるのだ。 1831年に作曲されたショパンの、 「ノクターン変ホ長調OP9-2」。 「夜想曲」とも呼ばれる。 ショパンは21曲のノクターンを作曲している が、その中で最も有名な作品だ。 眠りを誘うかのような繊細な和音。 腕や手首の力を抜き、ゆったりと、 しかし芯のある優しい音を奏でる。 繰り返される静かな旋律を一音一音途切れないように歌い上げるためのアーティキュレーション。 ペダル、速度、強弱…。 ほとんど暗譜しているこの曲を胡桃は、 大衆の前で堂々と、人の心を魅了する ピアニストになったつもりで変奏する。 すると、弾き終えた時には不思議と気持ちが スッキリしているのだ。 麗にイチゴをいっぱい食べられちゃった事。 テストで65点をとった事。 正人にミミズを投げられた事。 洋子が香織にまた意地悪をして、 見ていた自分まで嫌な思いをした事。 理科の時間にシャーペンの芯が折れてしまった事。 今日あった事を思い出しながら、 少しずつ消化していく。 なんとなく、まだ弾き足りず、 もう一度弾いていると麗がやって来た。 そしてピアノの上に置いている、赤い制服を 着たイギリス衛兵の形をした木人形に手を 伸ばした。 そして黒くて大きな帽子(ピアノ用羽毛)を 抜き、胡桃の首元を羽毛でくすぐり始めた。 「やめてよ」 「これに我慢しながら全部弾けたら合格です!  好きなシールをどうぞ~」 麗はピアノの先生の口癖を真似しながら、 面白がって首元から腕や足を羽毛で撫でてくる。 胡桃と麗はお互いにくすぐり合いながら、 ピアノを弾くというこの遊びをよくするのだ。 ゾクゾクするのを我慢してなんとか弾き終える と、胡桃は麗に代わるように言った。 「今度はイモちゃんの番だよ。 まだ練習、終わってないでしょ!」 「やだ~! 麗、後から練習するもん」 そう言って、 麗は羽毛を投げ捨てて逃げてしまった。 胡桃は明らかに間違った使い方をされている その羽毛を拾い、毛並みを整えて兵隊の頭に 戻すと、楽譜をいつもの場所に仕舞った。  胡桃は弾くだけでなくピアノを磨くのも 好きだ。 専用のクリームを塗り、乾いた布で滑らかな 曲線を描くピアノの、艶のあるブラウンを磨く。 もちろん埃が付きやすい鍵盤の隙間も忘れない。 そしてアップライトピアノの上に飾られている 写真立てやポプリの入ったガラスの器を全て どけて、蓋を開ける。 小さな木々が、ずらりと並び、ピンと張った 堅い針金がピアノの木の温かみのある、 包み込むような美しい音色を作り出す。 そして、背伸びをして中を覗き込んだまま、 右手で鍵盤をたたいて、どの木が動くかを 見る。 胡桃は調律士になったつもりで、全ての音階が 正しい音を出しているかチェックする。 マフラー(弱音器)ペダルを踏み、 薄いフェルトの付いた金の板が上下するかを 確かめる。 そしてダンパーペダルを踏んで、 弦が長く振動するか確かめる。 一番左のソフトペダルは使った事が無いが、 音がソフトになるらしいので、一応試してみる。 最後に美しい白い鍵盤の上に赤いフェルトの キーカバーを敷き、ゆっくりと蓋を閉める。 適度な重みのある信頼できるこの蓋が、 胡桃の秘密を守ってくれる。 しっかりと閉じられたこの箱の中に、 胡桃が人には言えない大きな気持ちや 小さい気持ちが詰め込まれているのだ。 つるつるに滑るピアノに頬をのせ、 ひんやりと冷たい感触を味わう。 そっと目を閉じ、溜め息をひとつ。 これで気分もすっきりとし、 前向きになれる。完璧だ。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!