5: 雨がやんだら

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5: 雨がやんだら

 香織は夕食を済ませた後、 国語の宿題を思い出し漢字の練習を始めた。 「恩 恩 恩 恩 恩」 「応 応 応 応 応」 「演 演 演......」 香織の勉強机の横では、佐知子が6月の カレンダーの裏にクーピーで絵を描いている。 指先にあるストロベリーの香りのする 消しゴムを、もてあそびながら香織は 佐知子の様子を見た。  数日前、床に茶色のクーピーの欠片が 落ちているのを、佐知子が見つけた。 それをチョコレートの欠片だと思い、 口に入れてしまい、噛んだ途端、 苦い味が口いっぱいに広がり大泣きしたのだ。 そんな事すっかり忘れて、 短くなったクーピーを力いっぱい握り締め ながら、佐知子は何やら真剣に描いている。 黄色の絵だとヒヨコ。 赤だとトマト。 緑の絵は葉っぱ。 時にはピーマンの時もある。 何を描いているか当ててあげると、 佐知子は嬉しそうに手を叩いて笑う。 ぷっくりとした頬や、あどけない表情、 両手で目をこする仕草など、佐知子を見て いると香織は不思議と気が紛れる。 自分にもこんな時期があったのかと思い ながら、大きく開いたままの窓の外を ぼんやり眺めていると、薄暗い空から ポツポツと雨が降ってきた。 そのうちに激しい夕立のような雨になり、 近くの国道を、オートバイが意図的に 大きなエンジン音を立てて走ってきた。 香織は急いで窓を閉めた。 そして頭に響く音が遠ざかると、 窓を半分程開け、音を立てて降っている 雨粒を見つめていた。 「あめ?」 佐知子が顔を上げて、聞いてきた。 「うん。雨だよ」 「あめは、どこからくるの?」 「雨かぁ。雨はね、お空に浮かんでる雲が 重たくなると、お水になって降って来るん だよ。わかる?」 佐知子は細い首を傾げた。 首を傾げるという動作を、 最近誰かの真似をして覚えたらしい。 香織はカレンダーの裏に、 グレーのクーピーでモクモクとした雲を描き、 その雲から滴を降らせて佐知子に見せた。 「泣いてるの?」 佐知子が頬杖をついて、そう言った。 雲が泣いている...... そう、雨が降ると、 気分が暗くなって泣きたくなる。 靴の先は濡れるし、髪はゴワゴワするし、 蒸し暑いし。 男子には傘に付いた水滴をはじかれて 意地悪されるし、いい事がない。 雨なんて大嫌いだ。 香織はお腹が痛いのに母親に信じて貰えな かった朝から、日直当番だった為に何度も 恥ずかしい目にあった事。 胡桃と真美と一緒に話をした事。 そして洋子の、嫌がらせ。 正人が帰りにみんなにひやかされて顔を 真っ赤にしていた事など、長かった今日一日を 順に思い出しながら、佐知子が自分の絵を 真似して雨を描いている姿を眺めていた。 「できた!」 満足そうに顔を上げた佐知子が描いた雨は、 水色やピンク、オレンジの様々な色の滴で、 その下で、赤いトマトや緑の葉っぱが笑って いた。 「みずあそびしてるの。あめがやんだら、 にじになるんだよね」 みんな笑っている...... 無邪気に笑う佐知子の頭を撫でてやると、 佐知子は立ち上がり、小さな手を香織の頭に 置き、「いい子いい子」と母親の口癖を 真似して撫でた。 激しい夕立が過ぎると、空気が幾分か冷やされ、少し涼しくなった部屋で香織はしばらく何も考えずにぼーっとしていた。
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