6: お姉ちゃんの「友達」

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6: お姉ちゃんの「友達」

「起~立! 礼! おはようございます」 正人は朝の号令をかけると、 日誌を胡桃に渡した。 「俺、号令かけるから、日誌書いてくれる?」 「いいよ」 今日の日直は、昨日の放課後に洋子が騒ぎを 起こした為に、とてもやりにくかった。 正人と胡桃が並んで黒板を消したり、先生の 手伝いをしていると、みんなが冷やかすのだ。 その度に正人は「うるせ~な」と顔を赤くして 怒っていた。 その反面、胡桃は「勝手に言わせておけばいい のよ」と言わんばかりの顔で無視していた。 「三上も嫌なら文句言えよ!」 むきになった正人が胡桃に突っかかってきた。 〈マサがそうやって、いちいち怒るから、 余計に面白がって冷やかしてくるんじゃない。 なんでこんな事も分からないんだろう。 でもこんなに顔を赤くしているという事は、 本当に私のことが好きなのかも......〉 胡桃は冷やかしている男子と、 大声を出して言い返している正人をチラッと 見て、小さく溜め息をついた。 「マサ、うるさいよ」 正人はやっと口を開いた胡桃の言葉に、 耳を疑ったらしく、「俺?」と自分を指差し、 ポカンとした表情で聞き返してきた。 胡桃が正人を優しく諭すようにゆっくり頷く と、周りの男子は笑ったが、 正人は素直に「ごめんなさい」と言って、 しばらくは大人しくなった。  給食の時間になると、正人を冷やかすのも 飽きたらしく、みんなの興味は他へ向いた。 「胡桃ちゃん、今日の帰りに未菜ちゃんの 家に寄らない? 犬を飼ったんだって。 すごく可愛いらしいよ」 「いいね! あ、でも今日はピアノの日だから あんまり時間ないかも」 「そっかぁ。でも帰りの途中だし、 ちょっとなら大丈夫でしょ?」 「うん...... じゃあ、ちょっとだけね」 6時間目は自習だった。 若林が帰りまでに配らないといけないプリント を印刷する為、職員室へ戻ると言うと、 みんな嬉しそうに騒ぎ出した。 「教室からは絶対に出るなよ! 誰かが騒いだら学級委員、先生を呼びに来い。 あと日直の二人は一緒に来て、 先生の手伝いをしてくれ。 枚数が多いから、日直の前の席の二人も来て」 胡桃は真美とお喋りをしようと思っていた のに呼ばれてしまい、がっかりした。 呼ばれた4人は若林の後に着いて、 一階まで階段を降りた。 若林は事務室に正人と鈴木を連れて行き、時々 暴走しだす印刷機を見ているように言った。 「三上と中野は、ちょっとここで待ってて」 若林は胡桃と香織を廊下に待たせて職員室へ 入って行った。  授業中の廊下はとても静かで、 戸が開けっ放しの事務室から聞こえる印刷機の 音が響いていた。 胡桃と香織は廊下の壁に寄りかかりながら、 無言でその音を聞いていた。 「中野さん......」 胡桃が職員室のプレートを見ながら、 突然香織に話しかけると、 香織は少し驚いた顔をして胡桃を見上げた。 「中野さん、唯ちゃんとか典子ちゃんとかと 一緒に帰るの嫌?」 単刀直入に聞いたつもりだったが、香織には 質問の意味を理解するのに時間がかかった。 何かを引きずった跡の残っている廊下をじっと 見つめていた香織がしぶしぶ喋りだしたのは、 胡桃が話題を別のものに変えようと喋ろうと した、その時だった。 「嫌じゃないけど......、 村田さんがいると二人とも態度が変わるから」 「でも洋子ちゃんの家は、学校の裏門出たら すぐだから、その後は平気でしょ」 「うん。でも誘われてないし......」 「たまには、自分から『一緒に帰ろう』って 声を掛けてみるとか」 ひと呼吸おいて、 香織はばつが悪そうに言った。 「無理だよ。 だって、みんな私の事、嫌いみたいだし......」 「......」 今度は胡桃が言葉に詰まってしまった。 確かに香織は好かれてはいないだろう。 自分から話をしてこないし、 正直、鈍そうだし。 いつも下ばかり見ていて、 人と目を合わせようとしないし。 でも、嫌われてはいないと思う。 唯も典子も洋子の視線が気になって、 香織に声を掛けないだけなのだ。 そんなに洋子が恐いのだろうか。 胡桃には唯や典子の表面だけの従順さが、 洋子をいい気にさせているのだとしか思え なかった。 自分の身を守るために洋子に同調する。 そうやって香織を傷付けているのが許せなかった。 「嫌われてなんかいないよ。少なくても私は 中野さんの事、嫌いじゃないよ」 こんな事、言うつもりではなかったのに、 つい胡桃の口から出てしまった言葉に、 胡桃自身、少し驚き、香織がどう受け止めたか 気になった。 しかし、うつむいたままの香織の表情は 胡桃には見えなかった。 香織は何も言わずに、自分の左の親指を右手で 握り締め、壁に寄りかかったまま上履きの先を 少し浮かせた。  今日の帰りの会が終わったのは、 2組が一番最後だった。 帰りの挨拶が済み、教室の戸が開けられると、 未菜と小百合が給食の白衣や体操着が詰められ 丸く膨らんだ鞄を抱えて入口で胡桃と真美を 探している。 「未菜ちゃん、小百合ちゃん!」 二人に気付いた真美が手招きをして呼んだ。 「ねえ、未菜ちゃん。どんな犬を飼ったの?」 「ゴールデン・レトリバーの女の子だよ」 「へ~。いいなぁ。名前は?」 「まだ決めてないの。 リリーとか、デリーとか、メアリーとか、 いっぱい候補が出てるんだけどね」 「可愛い?」 「可愛いよ~! まだ小さいし、あんまり吠えないからいい子だし」 真美の質問に、未菜が身を乗り出して嬉しそうに話している。 この話をいろんな子に、未菜は今日一日中しているのだろう。 楽しそうな話を片耳で聞きながら胡桃が 日誌の感想欄を記入していると、 小百合がやって来た。 「胡桃ちゃんも見に行くでしょ?」 「うん。でも、もしかしたら今日は行けない かも。でも真美ちゃんは見に行くと思うよ」 「え~、そうなの~」 小百合と胡桃が話していると、 廊下が騒がしくなった。 1組の男子が、白衣の入った袋をボール代わりに して蹴りながら走り回っていて、 その袋が女子トイレに入ってしまったのだ。 教壇で余ったプリントをまとめていた若林は、 その男子に注意をする為に教室を出た。 胡桃は「今だ」と思い、小百合との途中の会話 を真美に投げかけ、様子を見て廊下へ出た。 そして怒られた男子が汚れた袋をブラブラさせ ながら、自分の教室に入って行くのを見届けて いた若林の前に立った。 「先生、お願いがあるんですけど」 「おっ、どうした?」 「私、Aコースなんですけど、 今日はBコースから帰ってもいいですか?」 「Bコース? 何か用があるの?」 「えっと...... 中野さんがちょっと具合悪い みたいなんですけど、一人なので、私が送って 行こうかと思って」 「具合が悪いなら、 保健室へ行って、お母さんを呼ぼうか?」 「いや、そこまで悪くないんです。 でも...... 駄目ですか?」 「だって、三上の帰りが遅くなるし、 かなり遠回りになるだろ」 「私はいいんです」 「でもなぁ......」 若林が髪をいじりながら困り果てた顔をして いると、スピーカーから、 「体育館の鍵をお持ちの先生は、大至急、 職員室へお戻りください」 という放送が流れた。 「あっ」 ポケットに手を入れていた若林が、ポケットから手を抜くと、その手には鍵が握られていた。 「ごめんな。 ちょっとこの鍵、返してこないといけない」 そう言って、 曖昧に笑いながら若林は行ってしまった。 〈役立たず......〉 胡桃は胸の中で呟いた。 結局、若林に言っても何も解決しないのだ。 胡桃は若林にお願いした事に対して、「駄目」 とは言われていないので、 Bコースから帰る事を心に決めた。  教室に戻ると胡桃は真美にBコースから 帰る事を話して、一緒に未菜の家へ行けなくて ごめんねと謝った。 真美は香織をチラッと見て、口を小さく尖がらせたが、しぶしぶ納得したようだった。 胡桃は未菜と小百合にも謝り、机に肘をつき、 水槽の中で水草を突付いているメダカを見て いる香織に近づいた。 「中野さん、一緒に帰ろう!」 「え? でも......」 「今日、暇なの。だからちょっと寄り道!」 「本当に? いいの?」 「うん!」 嬉しいのか困っているのか読み取れない 表情の香織に、胡桃は精一杯、明るく答えた。  香織と並んで帰っていると、クラスの男子に 見つかり「なんで三上がBコースで帰っている んだよ」とか「先生に言いつけてやる」とか 叫ばれた。 胡桃は「今日は用事があるの。先生にはお願いして来たもん」と言い返し、そのあとは完全に無視した。 それでもうるさく付きまとっていたが、 学校を離れるに従って騒いでいた男子も いなくなった。 すると、だんだん香織は教室では見せない 笑顔で、胡桃の話に乗ってきた。 家族の事を胡桃が聞くと、兄弟が4人で、 2歳の妹と、4歳と5歳の年子の弟がいると 話し始めた。 この弟二人が生意気で喧嘩ばかりするらしい。 末っ子の佐知子は、なんでも人の真似をして、 どんどん物事を覚えてしまうので、 見ていて面白いとか。  行き先が分からず、そして初めて通る道というのは、何故、とても遠く感じるのだろう。 学校を出てから、 かなり歩いたような気がする。 胡桃は香織の話を一生懸命聞き、 相づちを打ちながらも心の隅では、 ピアノのレッスンに間に合わないかもと 心配になり始めていた。 「この道を入った所が、私の家」 香織が突然立ち止まり、指差した向こうで、 二人の男の子が縄跳びを蛇のようにクネクネさせて遊んでいる。 そしてすぐ近くで小さな女の子が膝を抱えて 座り込み、蛇のような動きをする縄跳びを じっと見ていた。 「あの子が、佐知子ちゃんね。かわいいね」 香織は佐知子の方を見ながら微笑した。 「三上さんの家は、どの辺なの?」 大事な事を思い出したように香織が聞いた。 「うちは、セブンストアの近くだよ」 「セブンストアか…... なら、この道を降りて 行って、国道に出た方が近いかも」 「本当? じゃあ、その道で帰る」 香織の後を胡桃が着いて行くと、 昇が香織に気付き、勢いよく振り回していた 縄跳びから目を離した。 するとビーチサンダルを履いていた宏の足の 指にピシャリと音を立てて縄跳びが当たった。 「痛い!」 泣きそうな宏は拳を作って、汗で濡れている Tシャツを引っ張って、昇の背中をぶった。 怒った昇もやり返そうとしたが、 胡桃の存在に気付き、手を止めた。 「お姉ちゃん、この人、誰?」 色あせたTシャツを着た昇が香織に聞くと、 目に涙を溜めたままの宏も横に並び、 それに続いて汗で艶やかな黒髪が首に張り付いている佐知子も、興味深々な目をして隣に並んだ。 「こんにちは。胡桃です」 胡桃が3人に挨拶をすると、 3人ともポカンと口を開けて黙ってしまった。 「こんにちは、は?」 香織が促すと、 昇が「こんにちは」と小さな声で答えた。 「お姉ちゃんの友達?」 今度は宏が胡桃の目をまっすぐに見ながら 聞いてきた。 胡桃は一瞬、答えに戸惑ったが、 「うん、友達だよ」と宏に向かって答えた。 すると香織が少し遅れて、 照れくさそうに「そう、お姉ちゃんの友達」と 小さな声で繰り返した。 「あら香織、お帰り」 玄関からエプロン姿の千代子が出て来た。 胡桃に気付くと、エプロンのポケットに入れて いたハンカチで額の汗を拭い、「こんにちは」 と言いながら近づいて来た。 香織は母親似なのだろう。 優しそうな丸い顔と、口元がよく似ている。 「こんにちは。三上 胡桃です」 胡桃が挨拶をすると、 香織が「同じクラスの三上さん」と付け加えた。 「そう…... いつも香織がお世話になっています」 『お世話になっています』という言葉は、 よく母親が電話口やピアノの先生に言う言葉 で、自分に対して言われた事がなかった胡桃は、恐縮してしまい、小さく首を振った。 「三上さんは、近くに住んでいるの?」 胡桃は千代子の珍しそうなものを見るような 表情にドキッとした。 何と答えれば良いのだろう。 正直に答えていいのだろうか。 胡桃が答えに戸惑っていると、 香織が「セブンストアの近くだって」と 代わりに答えた。 「セブンストア......」 何故、逆方向なのにBコースから帰っている のか、聞いてくるだろうか。 胡桃は何か聞かれても困るだけなので、 「すみません。もう帰らないといけないので」 と頭を軽く下げた。 千代子は胡桃の様子を見て、どうやら事情を察したらしく「ちょっと待っててね」と言って、 家の裏にまわり、まだ青い部分が所々に残って いるトマトとピーマンが沢山入ったビニール袋 を手に戻ってきた。 「これ、うちの庭で出来たの。 よかったら食べてね」 「ありがとうございます」 差し出された袋を胡桃は両手で受け取り、 お礼を言うと「またね」と香織たちに手を 小さく振った。 そして教えて貰った少し先の細い道に向かって 歩き出した。 曲がり角で振り向くと、 佐知子がまだ一人で手を振っていた。  雑木林のような細い道を抜けると、 車やバスが行き来する国道に出た。 そして日影も一気になくなり、 胡桃の頭を容赦なく強い日差しが降り注いだ。 〈うわっ、暑い......〉 車を整備する店の前を通った時、 ガラス張りの店内に掛けてある時計を見ると、 4時30分だった。 この時間だと5時からのレッスンには、 自転車でいくら急いでも間に合わない。 しかも今頃、母親が心配しているだろうと 思い、名札の裏をめくった。 そこにはいつも10円玉が1枚入っている。 胡桃は公衆電話を歩きながら探した。 酒屋の隣にあったボックスに入りガラス戸を 閉めると、押し寄せるような淀んだ暑い空気に 包まれた。 自宅の番号を押すと、 4コール目で春子の声が出た。 「はい、三上でございます」 「あっ、ママ。胡桃です」 「胡桃ちゃん? どうしたの?」 「今、国道の、えーと......、 酒屋さんの所にいるの」 「酒屋?」 「うん。ちょっと訳があって。急いで帰るけど、ピアノに遅れちゃいそうなの。 先生に電話しておいてくれる?」 「えー。分かったわ。今、一人なの?  大丈夫?」 「うん。大丈夫」 「気をつけて帰ってらっしゃいね」 「うん......」 胡桃は受話器を戻し母との会話が途切れると、 突然涙が出そうになって、鼻がツ~ンとした。 しかも電話ボックスの中は蒸し暑く、 気持ち悪くなりそうだった。 胡桃は外へ出て、空気をいっぱい吸った。 しかしその空気も排気ガスの臭いと錆臭い味が して、どっと疲れが出た。 この道をまっすぐ歩いて行けば、 セブンストアの看板が見えるはず。 セブンストアの上はマンションになって いて、真美が住んでいる。 きっと真美は、未菜や小百合と一緒に ゴールデン・レトリバーの子犬と少し遊んで 帰ったとしても、とっくに家に帰って、 冷たいジュースを飲みながら、宿題でもして いるのだろう。 急いで歩いているつもりなのに足が重く、 頭を手で触れるととても熱い。 背中には普段かかない位の大量の汗をかき、 服が張り付いている。 ランドセルの中の教科書と筆入れが歩くたびに ぶつかり、パタパタと音を立てる。 しかも香織の母親から貰ったトマトとピーマンの入った重たい袋が手に食い込み、痛くなってきた。 善意でしたつもりの行為なのに、 今となっては半分、後悔へと変わっていた。 向こう側の車道は渋滞していて、少しずつ しか動かないが、胡桃と同じ方向に進む車は スムーズに流れている。 どんどん胡桃を追い抜かしていく車を見送り ながら、ひたすら歩いた。 だんだん、見覚えのある店や建物が目に入る ようになり、胡桃は深呼吸をした。 〈もうすぐだ......〉 セブンストアの前を通り坂道を上がった ところが胡桃の家だ。 すぐ近くまで着くと、リビングの窓から春子と 麗がこちらに向かって手を振っている。 それに気付き、少し元気が出た胡桃は、 残っている力を出しきって走り出した。 玄関の戸に手を伸ばすと、中から春子が戸を開けてくれた。 「お帰り。大丈夫?」 「ただいま。これ、重かったよぉ」 「トマト?」 袋を受け取った春子は中を見て、 胡桃の予想通り驚いた顔をした。 「うん、貰ったの。理由はピアノから帰ったら 話すね。早く行かなきゃ」 「そうね。麗も待っていたの。 一緒に行ってあげてね」
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