7: 夏休みの朝

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7: 夏休みの朝

 夏休みの朝は風物詩とも言える、 ラジオ体操から始まる。 朝に強い胡桃は、 6時30分からのラジオ体操のために早起きを して、髪をポニーテールに結び、ボンボンの 付いた飾りをつけて、眠い目をこすっている 麗の手を引きながら、家の近くの広場に 向かった。  5分前に着くと、すでに元気に走り回って いたり、鉄棒で懸垂をしている子がいた。 胡桃と麗が同じ班の子と話をしていると、 寝癖のついた頭のまま眠そうな顔をした子や、 はりきって早く来たのに、カードを忘れて 家まで取りに戻っていた子が、だんだんと 集まり始めた。 「あ~たらっしい 朝がきた~ きぼ~おの朝だ~」 大音量で突然、ピアノ伴奏の音楽が鳴り出す と、それまでダルそうにしていた子だちも、 自然と隣の子との間隔を少し開けて、 体が覚えてしまっている体操をし出す。 そして、ラジオ体操第二の開始直後に必ず訪れる笑い。 そう、ゴリラみたいなポーズだ。 本当はゴリラではなく猫の手ポーズらしいが、 どちらにせよちょっと恥ずかしい。 胡桃が体操をしながら目の前の団地のベランダ を見上げると、幼稚園くらいの男の子が、 音楽に合わせて体操をするというより元気よく 踊っていた。 犬の鳴き声がしたので、後ろを振り向くと、 犬の散歩中らしい白髪頭のお爺さんが、 犬の綱を鉄棒にくくり付けて、張り切って 一緒に体操をしている。 古臭い音楽1つで、小さな子供から年配の方 まで引き寄せてしまうラジオ体操というのは、 なんとも不思議な健康メソッドなのだ。  体操が済むと、6年生の前に下級生が いっせいに並び、一人ずつ首から下げている カードに印を押してもらう。 胡桃も空いている列に麗と並び、企業の広告と ラジオ体操の歌詞が印刷されているカードの 今日の日付欄に印を押してもらった。  家へ戻り、「ただいま~」と胡桃と麗が声を 合わせてリビングへ入ると、父の洋輔が朝食を 済ませて、新聞を広げていた。 手を洗い、ダイニングにつくと春子が二人の 前に目玉焼きとトースト、そして昨夜の夕食の 残りを出した。 麗は、バターが塗られてこんがりと焼いてある トーストに目玉焼きをのせて、大きな口で かぶりついた。 「天空の城 ラピュタ」の映画の中でパズーが、 パンの上に目玉焼きをのせて美味しそうに 食べているシーンがある。 あれを真似ているのだ。 半熟の卵がトロ~と垂れて、 麗の口と手が黄色になっている。 春子にティッシュで口の周りを拭かれて 嫌がっている麗を見て、胡桃は笑った。 あまり上品ではないが、なんだか箸を使って 目玉焼きを食べている自分よりも麗の目玉焼き の方が何倍も美味しそうに見えた。  今日からスイミング教室が始まるため、 出かける準備を胡桃はしたが、まだ1時間ほど 家を出るまでに時間があったので、夏休みの 宿題にとりかかった。 「嫌なものは早めに終わらせてしまう」という のが胡桃のモットーで7月中に「絵日記」以外 は全て終わらせるつもりなのだ。 自分の部屋から胡桃は、漢字練習帳と分厚い 辞書を抱えてエアコンが効いているリビングに 降りてきた。 教科書で新しく出てくる漢字を練習し、 その漢字を使ったいろいろな文章を考えると いう地味な宿題だ。 「な~みをちゃぷちゃぷ ちゃぷちゃぷ かきわけて~」 テレビで「ひょっこりひょうたん島」を見てい た麗が軽快な音楽に合わせて楽しそうに歌っている。 東京オリンピックが開催された、 1964年から1969年に放送された、 ひょうたん型の小さな島が舞台の人形劇。 人気があったためリメイクされ、NHK衛星放送 で復刻版がオンエアされているのだ。 自分勝手で愉快な大人たちと、 しっかり者の子供たちが登場する奇想天外な ストーリー。 とても面白い物語だ。 「く~もをすいすい すいすい おいぬいて~」 「いもちゃん、宿題しなきゃいけないの。 ちょっと静かにしてよ」 番組が終わっても、なかなかこの曲が頭から 離れないのは、胡桃もよく分かる。 しかし、この曲を歌われている横で、 漢字練習をしても全く頭には入らない。 「ねえ、いもちゃん。お願い」 「くるし~いこ~とも あるだろさ かなしいこ~とも あるだろさ」 さっきよりも声を張り上げて歌っている麗の 耳にはもちろん、胡桃の声が聞こえている。 しかし麗は、自分の歌を途中で邪魔されるのが とても嫌いなのだ。 なので必ず最後まで意地でも歌い通す。 胡桃もこの事を十分に分かっているので、 溜め息をついて諦めた。 そして麗の歌が最後まで終わるのを、 シャーペンの中の芯の本数を数えながら 待った。 「ひょっこりひょ~たんじ~ま ひょっこりひょ~たんじ~ま」 〈やっと終わった......〉 最後まで歌い終えた麗は、ぴょんと弾ける 様にソファーから飛び降り、キッチンへ向かってオレンジジュースを満足気に飲み始めた。 「 丸い地球の水平線に  何かがきっと待っている 苦しいことも あるだろさ   悲しいことも あるだろさ だけどぼくらはくじけない   泣くのはいやだ 笑っちゃおう 進め!」 自分の意に反してメロディーが何度も強迫的に リピートするイヤーワーム状態。 麗の歌声は、胡桃の脳内に、 しっかりとした痕跡を残していった。
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