6人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
7: 夏休みの朝
夏休みの朝は風物詩とも言える、
ラジオ体操から始まる。
朝に強い胡桃は、
6時30分からのラジオ体操のために早起きを
して、髪をポニーテールに結び、ボンボンの
付いた飾りをつけて、眠い目をこすっている
麗の手を引きながら、家の近くの広場に
向かった。
5分前に着くと、すでに元気に走り回って
いたり、鉄棒で懸垂をしている子がいた。
胡桃と麗が同じ班の子と話をしていると、
寝癖のついた頭のまま眠そうな顔をした子や、
はりきって早く来たのに、カードを忘れて
家まで取りに戻っていた子が、だんだんと
集まり始めた。
「あ~たらっしい 朝がきた~
きぼ~おの朝だ~」
大音量で突然、ピアノ伴奏の音楽が鳴り出す
と、それまでダルそうにしていた子だちも、
自然と隣の子との間隔を少し開けて、
体が覚えてしまっている体操をし出す。
そして、ラジオ体操第二の開始直後に必ず訪れる笑い。
そう、ゴリラみたいなポーズだ。
本当はゴリラではなく猫の手ポーズらしいが、
どちらにせよちょっと恥ずかしい。
胡桃が体操をしながら目の前の団地のベランダ
を見上げると、幼稚園くらいの男の子が、
音楽に合わせて体操をするというより元気よく
踊っていた。
犬の鳴き声がしたので、後ろを振り向くと、
犬の散歩中らしい白髪頭のお爺さんが、
犬の綱を鉄棒にくくり付けて、張り切って
一緒に体操をしている。
古臭い音楽1つで、小さな子供から年配の方
まで引き寄せてしまうラジオ体操というのは、
なんとも不思議な健康メソッドなのだ。
体操が済むと、6年生の前に下級生が
いっせいに並び、一人ずつ首から下げている
カードに印を押してもらう。
胡桃も空いている列に麗と並び、企業の広告と
ラジオ体操の歌詞が印刷されているカードの
今日の日付欄に印を押してもらった。
家へ戻り、「ただいま~」と胡桃と麗が声を
合わせてリビングへ入ると、父の洋輔が朝食を
済ませて、新聞を広げていた。
手を洗い、ダイニングにつくと春子が二人の
前に目玉焼きとトースト、そして昨夜の夕食の
残りを出した。
麗は、バターが塗られてこんがりと焼いてある
トーストに目玉焼きをのせて、大きな口で
かぶりついた。
「天空の城 ラピュタ」の映画の中でパズーが、
パンの上に目玉焼きをのせて美味しそうに
食べているシーンがある。
あれを真似ているのだ。
半熟の卵がトロ~と垂れて、
麗の口と手が黄色になっている。
春子にティッシュで口の周りを拭かれて
嫌がっている麗を見て、胡桃は笑った。
あまり上品ではないが、なんだか箸を使って
目玉焼きを食べている自分よりも麗の目玉焼き
の方が何倍も美味しそうに見えた。
今日からスイミング教室が始まるため、
出かける準備を胡桃はしたが、まだ1時間ほど
家を出るまでに時間があったので、夏休みの
宿題にとりかかった。
「嫌なものは早めに終わらせてしまう」という
のが胡桃のモットーで7月中に「絵日記」以外
は全て終わらせるつもりなのだ。
自分の部屋から胡桃は、漢字練習帳と分厚い
辞書を抱えてエアコンが効いているリビングに
降りてきた。
教科書で新しく出てくる漢字を練習し、
その漢字を使ったいろいろな文章を考えると
いう地味な宿題だ。
「な~みをちゃぷちゃぷ ちゃぷちゃぷ
かきわけて~」
テレビで「ひょっこりひょうたん島」を見てい
た麗が軽快な音楽に合わせて楽しそうに歌っている。
東京オリンピックが開催された、
1964年から1969年に放送された、
ひょうたん型の小さな島が舞台の人形劇。
人気があったためリメイクされ、NHK衛星放送
で復刻版がオンエアされているのだ。
自分勝手で愉快な大人たちと、
しっかり者の子供たちが登場する奇想天外な
ストーリー。
とても面白い物語だ。
「く~もをすいすい すいすい おいぬいて~」
「いもちゃん、宿題しなきゃいけないの。
ちょっと静かにしてよ」
番組が終わっても、なかなかこの曲が頭から
離れないのは、胡桃もよく分かる。
しかし、この曲を歌われている横で、
漢字練習をしても全く頭には入らない。
「ねえ、いもちゃん。お願い」
「くるし~いこ~とも あるだろさ
かなしいこ~とも あるだろさ」
さっきよりも声を張り上げて歌っている麗の
耳にはもちろん、胡桃の声が聞こえている。
しかし麗は、自分の歌を途中で邪魔されるのが
とても嫌いなのだ。
なので必ず最後まで意地でも歌い通す。
胡桃もこの事を十分に分かっているので、
溜め息をついて諦めた。
そして麗の歌が最後まで終わるのを、
シャーペンの中の芯の本数を数えながら
待った。
「ひょっこりひょ~たんじ~ま
ひょっこりひょ~たんじ~ま」
〈やっと終わった......〉
最後まで歌い終えた麗は、ぴょんと弾ける
様にソファーから飛び降り、キッチンへ向かってオレンジジュースを満足気に飲み始めた。
「 丸い地球の水平線に
何かがきっと待っている
苦しいことも あるだろさ
悲しいことも あるだろさ
だけどぼくらはくじけない
泣くのはいやだ 笑っちゃおう 進め!」
自分の意に反してメロディーが何度も強迫的に
リピートするイヤーワーム状態。
麗の歌声は、胡桃の脳内に、
しっかりとした痕跡を残していった。
最初のコメントを投稿しよう!