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それは他愛もない、いつもと変わりのない穏やかな日のことだった。
月に一度買いに来てくれる年配のご夫婦を見送り、そろそろ閉店準備を始めようと厨房に入った時だった。
扉が開く音がして慌てて店の方に戻る。そこには一人のスーツ姿の男性が屈んで、ショーケースの中のケーキを覗き込んでいた。
「いらっしゃいませ」
声をかけてみたが、ケーキに見入っているのか返事がない。まぁ何かあれば聞いてくるだろう。
「……こちらのケーキはグルテンフリーだと伺ったのですが」
「えぇ、小麦粉、卵、乳製品は使わずに作ってます。良かったらご試食されますか?」
「いいんですか?」
「もちろん。食べてみないとわからないのがうちのケーキですから」
ショーケースから小さめのロールケーキを一切れ取り出すと、お皿にフォークと共に載せて男性に渡す。
その時にようやく男性の顔を見た利麻は、衝撃のあまり固まってしまう。しかしそんなことをよそに、男性はお皿を受け取るとケーキを口に運ぶ。
「本当だ。普通のケーキよりもっちりしていて美味しいですね」
「えっ……あっ……そうなんです。小麦粉の代わりに米粉を使用しているんですよ。クリームは豆乳で作っているので、アレルギーの方でも召し上がっていただけるようになってます」
利麻は慌てて顔を逸らした。彼は気付いていないように見える。それでも心拍数が上がり、呼吸が乱れ、普通に話すのも困難になる。
きっと間違いではないはず。目の前にいるのは、私がファーストキスを奪ってしまった茂松くん。あんなに必死になって避け続けた彼の顔を忘れるわけがない。あれから五年経つけど、ほとんど変わっていない。
利麻は深呼吸をする。大丈夫、このまま店員としてスルーしよう。
ただ利麻の中で疑問が生まれる。彼はどうしてこんな郊外の、しかもうちみたいな小さな洋菓子店に来たんだろうか。訳がわからなくて頭が混乱する。
その時彼が棚にぶつかり、置いてあった焼き菓子が床に散乱した。
「あっ、すみません! 今拾いますね!」
一成がしゃがみ込んで拾い始めたので、利麻も慌ててカウンターの中から外に出る。
「そのままで大丈夫ですから」
「いえいえ、僕のせいですし……」
「私がやるので置いておいてくださ……!」
しかし焼き菓子を拾おうとした手を、突然彼に掴まれた。
利麻は心臓が止まるかと思った。何が起きたのかわからず、暫しの沈黙が流れる。それから恐る恐る彼の方を向くと、一成はニヤッと笑ってこちらを見ていた。
「気付いてないと思った? キス魔の柳田利麻先輩」
利麻は唾をゴクリと飲み込んだ。
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