初めてって、不平等。

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初めてって、不平等。

三月も終わりの海から、柔らかな磯の香りがする。 短い春休みの中、冬の間に酷使したチェルシーブーツを脱いで裸足になり、きめ細やかな砂をそっと踏んだ。 爪先から足の裏の形に合わせて、ほの温かな砂が沈み込む。 刻んでは風に攫われていく儚い足跡。 時折混ざる小枝や小石のザラつきに足を取られないよう、歩く度に重心を整えようと上半身を揺らす。 「あったかい。砂の上に太陽が残ってるみたい」 爪先で砂粒を蹴り上げて、足裏に伝わる熱の感想を零す。 お昼ご飯を食べて電車に乗り込んだ時には、まだ太陽の残り香を探す必要のない薄い青空が広がっていた。 春先の空色はどこか薄く透けて見えるもので、その時の私は今日一日晴れていると信じて疑わなかった。 電車の窓から流れていく景色は次第に彩度を落としていき、目当ての駅へ降り立った時には余所余所しい鈍色の空が広がっていた。 現在も、青空の欠片も残さない空が私達の頭上を覆っている。 天気予報も存外に当てにならない。 私が今日一日の青空を信じていたのは、春よりも夏の方が似合いそうな笑顔のお天気お姉さんの言葉があったからなのだが。 しかし、私の生まれ育った雪国を思えば悪い天気とも言い難い。 一般的に春と呼ばれる三月も、私の故郷では雪が降る。 桜舞う卒業式など、幼稚園から中学校まで経験したことがなかった。 それだけではなく、この時期にも雪は残りコンクリートや砂の見えない部分は多い。 雪が積もらないだけで何もかもが違う。 「足、寒くない?」 背後からの問い掛けに振り向く。 微かに湿気を帯びた風が前髪を撫でていく。 乱れた前髪を指先で整え、拓けた視界で私をここに連れて来た張本人を見た。 私が脱いで放置したブーツを片手にぶら下げ、私の作った足跡を踏まないように数メートル背後をのんびりと歩いている。 高身長に見合う、私なんかよりももっとずっと速く遠くへ行けるであろう長い足で。 私は後ろ向きに一歩進んで「平気」と答える。 首を振りながら「砂だけだから」とも。 「砂浜だからね。流石に、海に入るのは止めておいた方が良いよ」 「それは、勿論」 言いながら、私と彼とでは認識の相違があると思った。 私の冬の海は寒々しい色のない場所で、砂浜が雪に覆われたものだ。 決して砂浜だからと言って素足で歩き回れるものじゃない。 そう思い立ち止まった私は、その場の砂を爪先でほじくり返した。 「……私、海街で育ったけど雪国だったから、この時期の海岸は雪が積もってて素足じゃ絶対に歩けないの。だから、新鮮で」 ほじくり返した砂を蹴り上げて薄く笑う。 そのまま同じように足を止めている彼を見た。 白いブレザーでもジャージでもない、私服姿の天瀬(あませ)くんを私は初めて見た。 裏地の色が違うマウンテンパーカーに、細身のパンツと年季の入ったスニーカーを合わせている。 制服とも部活のユニホームとも違う、知らない人のようだ。 適切な距離を持って立ち止まっている天瀬くんは、パーカーのポケットに片手を潜ませながら静かに目を伏せた。 存外に長い睫毛が肉の薄い頬に影を落とす。 「良かった。夜桜散(いみなし)さんが楽しそうで」 「え?」 「女の子をどこに連れていったら良いか分からなかったから。知り合いにそういう的確なアドバイスが出来るやつ、いなくてさ。ヤバいよね、囚人生活みたいで」 春先の風には冬の鋭さが微かに残り、晒した足首が寒いほどに涼しい。 それなのに、足裏には柔らかな熱が残っている。 夏でもないのに海なんて、一体何があるのだろうと考え、彼が無類の海好きなのかと見当違いをしていた。 しかし、人気のない海は二人ぼっちで散歩するのに悪くない。 誰のアドバイスも受けずに、天瀬くんが考えて決めた行き先ならば尚のこと。 中途半端に足を止めている私は、ゆらゆらと左右に揺れた。 彼の口振りはいつも軽やかで、言葉を吐き出すまでに随分と時間の掛かる私との間に落ちる沈黙を程良く埋める。 今日はいつもより無言が多く、波の音が無音を許さない。 体の揺れに合わせて、私は視線を浜辺に打ち付けるくすんだ白波を見た。 「……で、でも。それは、その、バレーボールが恋人、みたいな」 薄い桜色を乗せた爪の先で、服の裾を摘んでは離す。 瞬きの回数が減った瞼の裏では、私服よりも見慣れたユニホーム姿の彼がボンヤリと浮かんでいる。 毎日毎日、三百六十五日のうち彼はどれだけの時間を一つのことに費やしているのだろう。 バレーボールは彼の大本命だ。 手垢の付いた私の言い回しがおかしかったのか、天瀬くんは吹き出して笑った。 「随分と美化してくれるね。じゃあ、俺は今、浮気中だ」 「えっ!いや、そんな。そんなつもりじゃ」 「良いご身分だこと。愛想尽かされなきゃ良いんだけどね」 クスクスと口内で転がすような笑い声に、私は勢い良く顔を上げた。 私の弁解を聞かず、自分自身を揶揄うように天瀬くんはゆうらりと鷹揚に嘯く。 そこに不快感は見られない。 安堵の後に、言葉の真意が気になった。 愛想を尽かされるって、それはどっちに、と。 目を見開いて凝視する私を見ずに、天瀬くんの深い色味の瞳は海へ流れる。 揺れることのない瞳は硬質的な静かさを持っていた。 薄く開いた唇から吐き出される息に、冬の白い息を夢想する。 目に見えるものは良いと思う。 分かりやすく、易しいから。 「天瀬くんは、ちゃんと楽しい?その、今日、私と……」 「うん。楽しいよ。俺の地元って海がなかったから。雪も積もらないしね」 言い淀んで爪をカチカチと鳴らした私を、天瀬くんが流れるように視線を向けた。 「一度来てみたかったんだよね」と続けながら。 どうせ海に来るのならば夏の方が良いのでは、と口を開き掛けて言葉を発するよりも前に止めた。 彼の夏はいつも忙しい。 結局口を噤んだ私の沈黙を、永遠に途切れることのない波の音が優しく繋いでくれる。 今日は初めて彼の私服を見ただけでなく、彼がここに来たかった理由も、彼の生まれ育った場所のことも知れた。 どんな些細なことでも、どんな小さな欠片だとしても、天瀬くんのことを知るのは嬉しい。 それを上手く伝える術を持たず、知りたいという欲求だけで言葉を発せない私を自覚するのだけが、少し苦しかった。 小首を傾げるように天瀬くんを見ていたが、ふと視線を逸らされる。 天瀬くんは顔を上げて空を見た。 その視線を追い掛けるように、私も空を見上げる。 角度を変えた頬に冷たい雫が触れた。 「あ」呟いたのは私だった。 鉛色の分厚い雲に覆われた空から細く細かな雨粒が落ちてくる。 「雨だ」と続けたのは天瀬くんだった。 *** 聞き返された時、またか、と思った。 自分の苗字が嫌いだと自覚したのは小学生の頃だ。 夜の桜が散る、と書いてイミナシと読む私の苗字は所謂珍名で、同級生は疎か教師ですら、初見で漢字と読みを一致させることが出来ない。 大抵の自己紹介では、え?と聞き返される。 そしてもう一度名乗った後に、珍しい苗字だね、か、どういう漢字で書くの、と聞かれる。 私はまたかと思うが、相手にはそんなことは関係ない。 高校で知り合った友達の双子のお兄さんが、試合に出るからと連れ出されたバレーボールの大会でのことだ。 体育の授業で触れたことがある程度の知識で見る試合は、試合の流れよりも知らないルールの方に気を取られてしまった。 捲られていくスコアボードと喜び合う選手達で、応援しにきたチームが勝ったと分かった。 試合を見終わった後、そのまま帰るのかと思った私達の前に、天瀬くんを連れた友達のお兄さんが現れた。 友達のお兄さんは二卵性双生児という割に、笑った顔が友達そっくりで初対面だと言うのに親しみを感じたものだ。 しかし、自己紹介は相変わらず一度で伝わらない。 聞き返された名前に眉尻を下げた時、じっと黙っていた天瀬くんが口を開いた。 ニコリともしない顔は私に向けられていた。 「夜のうちに桜が散ってしまったら、どんなに美しく咲いても意味がない。のイミナシさんでしょう」 え、と声を発したのは私以外の二人だった。 友達もそのお兄さんも彼を見ていた。 「そ、う。そう、です」 初めてだった。 自己紹介の名前を聞き返されないことも、読みと漢字を一度で結び付けてしまう人も。 震える唇で何とか肯定した私を置いて、友達のお兄さんは「凄いな、天瀬」と彼の肩を叩いた。 あませくん、私は声に出さず口の中でその言葉を転がす。 「チカは?……下の名前はどういう字で書くの」 「あ、っと。数字の千に、簡単な方の花です」 「へぇ。良いね。千花ちゃん」 苗字より随分簡単な名前を、私は空中で書いて見せた。 指先の動きを目で追った天瀬くんは、そこで初めて笑みを浮かべた。 胸よりも喉がキュッと音を立てる。 小難しい苗字が嫌いなように、名前も嫌いだった。 散れば意味がないと言われる桜の苗字に対し、千の花を名前に持ってくるのは不遜を通り越して滑稽だ。 「桜と言えば春の代名詞みたいなものだけれど、それで終わりじゃないからね。良いと思うよ。桜が散った後にも、千の花が残ってるなら花見し放題だし」 細められた瞳を前に、私はもう言葉が出なかった。 その後、どういった話をしたのかは覚えておらず、ただ二人が立ち去った後に涙を流した。 ギョッと目を見開く友達に支えられ、私は人生で初めて自分の苗字を、名前を、好きだと思った。 泣いた私を見て、友達は色々と察したらしい。 文化祭や練習試合、微かな接点を一つずつ増やす手引きをしてくれた。 点ばかりが増えて、それを結ぶ手立てを持たない私が緊張で内臓を吐き出しそうになりながらも、バレンタインのチョコレートを渡した時は、友達の方が泣いてしまった。 しかし直ぐに、連絡先を交換してもらうのがやっとだと知ると、何やってんの、と呆れられた。 それが、早く連絡しなさいに変わる頃だ。 偶然、駅のホームで天瀬くんと出くわしたのは。 私の通う学校の最寄り駅で、かれは数駅先の整体院に行った帰りだった。 「夜桜散さん、連絡先交換して下さいって言った割に全然連絡くれないね」 一緒にいた友達は、白々しい用事があったという嘘でいつもと違う電車に飛び乗ってしまった。 全く違う制服の男女が二人、ホームのベンチに座っていると視線が飛び交う。 沈黙を補うには配慮の足りない環境に、私は言葉を選び取る時間がなかった。 「えっと。……ええと、それは。忙しいのに、迷惑かな、って」 「メール読んだり書いたりするくらい出来るんだけど。俺、そんな秒刻みの毎日を送ってると思われてるの」 ボタンを全て外したブレザーのポケットに両手を入れ、長い足を組み替えながら、天瀬くんは息を吐くように笑う。 唇を噛んで目を細めた私を、天瀬くんが斜め下から覗き込む。 「何か、ないの。俺に連絡ごと」 下から問い掛けられ、私は首に巻いたマフラーへ顔を埋めた。 真意を話さずに渡したチョコレートを、天瀬くんはどういう気持ちで受け取ったのだろうか。 じっ、と静かに私を見つめる凪いだ瞳は全部見透かしていそうだ。 見つめられることも見つめ返すことも耐えられずに、視線を逸らす。 マフラーに埋もれた唇をハクハクと動かす。 「……ある、んだと思う、けど」 「けど?」 「何をどう伝えて良いのか、分からなくて」 「ふぅん。メールと電話、それからこうやって会って喋るの、どれが良い?」 パッ、と天瀬くんを見た。 視線がかち合うと、薄青に光る髪を揺らして首を傾げる。 「……会いたい」答えて、白いブレザーの下に着込んだ赤いパーカーに目が眩んだ。 上品に仕立てられた制服を、年相応に着こなしている。 この日はこの瞬間にちゃんと天瀬くんを見た気がした。 「会えば良いじゃん? 別に。練習のない日、教えてあげるのに」 私がちゃんと目線を合わせているのに、今度は天瀬くんの方が私から視線を外した。 その瞬間に速度を落とした電車がホームへ滑り込んでくる。 天瀬くんが乗る電車のようで、彼はゆっくりと立ち上がった。 小さな傷のあるエナメルバッグを肩に掛け直し、私を振り返る。 私は顎を上げて天瀬くんを見上げた。 座った状態で見ると、天瀬くんが如何に上背があるのか分かる。 真っ直ぐに伸びた背筋とバランスの取れた重心を見ていると、整体院でどこを診てもらったのだろうと思う。 薄く口を開いている私に、天瀬くんは極淡い笑みを残す。 吹けば消えるような薄いものだ。 「今度、二人でどこか行こうか」 その一言を置いて、天瀬くんは電車に乗って行ってしまった。 二人で、どこかへ。 私は口の中と頭の中で残された言葉を反芻する。 耳朶まで熱くなって、私はその場でマフラーを外してしまった。 折り畳んだマフラーを膝に置いて、乗るはずだった電車を一本、二本、と逃してしまう。 二人でどこかへ行った時、私は天瀬くんとちゃんと言葉を交わせるのだろうか。 彼が私に問い掛けた『連絡ごと』を伝えられるのだろうか。 冷たいベンチが私の熱を吸って温まるまで、私は全部で五本の電車を見送った。 *** 急いで足裏の砂を払ってブーツを履き直したせいか、ザリザリとした感触が足指に残り続けているような気がする。 春雨に降られ、私達は駅まで徒歩二十分の道程を引き返す。 段々と雨足は強くなる一方で、やはり天気予報は当てにならないと思った。 途中、天瀬君は着ていたマウンテンパーカーを脱いで、もたつく私の頭にそれを被せた。 大丈夫と言っても、良いから、と有無を言わせない響きで。 彼のパーカーの内側にはこもった体温と、スウスウとした湿布のような匂いがほのかに染み付いていた。 まるで彼の腕の中に抱き留められたようで、雨に濡れて冷えたはずの体が熱を持つ。 走ることに集中していなかった私は、自分の足にもう片方の足を絡めてよろけるが、天瀬くんの腕がそれを支える。 パーカーを貸してくれるだけではなく、そのまま小脇に抱き込むようにして押しやるように、引っ張るように併走してくれた。 天瀬くんはどこまでも優しく、私はその優しさを少しばかり恨んだ。 電車が出発したばかりの駅の待合室には、私達の他に人影はなかった。 「結構降られたね」と言って、天瀬くんは濡れた前髪を手の平で崩す。 額に掛かる少し長めの前髪だ。 私の差し出したハンカチを受け取らずに、かれは手櫛で髪にまとわりつく滴を払い落とした。 「……そうすると、天瀬くんが格好良いからヤだな」 行き場を失ったハンカチを両手で握り締めて呟いたのは、あまりに無防備な本音だった。 言い切ってからヒュルリと喉が鳴る。 動揺した私に対して、天瀬くんは首を傾げて私を見た。 肌に張り付いたシャツの肩口を剥がすように、何度かつまみ上げながら。 「格好良いとヤなの?」 「……ヤ、だよ。だって、天瀬くん、モテちゃう」 私の返答に天瀬くんは目を剥いた。 パチクリ、という風に。 それから心底不思議そうに「モテる?俺が?」と言う。 学校の違う私には天瀬くんが同級生からどう見られ、どう思われているのか知らない。 それでも、彼と同じ学校に通い、同じクラスで同じ授業を受けられる女の子達がとてつもなく羨ましかった。 妬ましさすらある、と眇めた目を向けるが、天瀬くんはその視線をいなすように気の抜けた笑いを零す。 「女の子のことは良く分からないけど、そんなんで好きになられても俺はどうしようも出来ないよ」 トサリと音を立てて天瀬くんはベンチへ腰掛けた。 突っ立ったままの私は天瀬くんを見下ろして眉を寄せる。 その言葉を喜べば良いのか、軽んじられたと思うべきなのか分からなかったからだ。 「モテちゃうかぁ。そんな言葉、一生言われることないと思ってたな」 カラカラと笑い、私の言葉を鼻歌のように反芻しながら、天瀬くんはくんは膝の間に両腕を垂らして猫背になった。 シャツの張り付いた背中は背骨が浮かんでいる。 一生、と彼は何でもないように言う。 両手両足の指を全て使っても余る年数しか生きていない私達にとって、一生はもっと途方もない年月の束であるはずだ。 その一生という時間の中で、天瀬くんの時間の中で私という存在があるのはどれくらいだろうか。 これまで、今、これから、全部積み上げて、天瀬くんの中に私がどれだけ残るだろう。 「……私、私がおばあちゃんになった時、どんな風に天瀬くんのこもを思い返すんだろう」 一生の最期のほとりで。 その時、私は誰の隣にいるのだろう。 私の隣には、誰がいてくれるのだろう。 或いは一人かも知れない。 目を見開いて天瀬くんを見つめる私の言葉を、彼は「随分、気の長い話だね」と待合室の掛け時計を見上げながらあしらった。 向けられた視線に息を詰まらせる私を知っていても、きっと向けられない視線に喉を詰まらせる私を、天瀬くんはきっと知らない。 「忘れるよ。俺のことなんて、直ぐに」 「そんなことない!」 張り上げた私の声がガランとした待合室に良く響く。 鳩尾の辺りがギュッと締まり、熱の塊が喉を締め付けた。 開いた口は言葉を選ばず、それを咎めるように唇が小さく痛む。 「だって、だって高校の三年間なんて、一生に一度しかなくて。だからきっと、この先何があっても私の高校生だった時間はなきにも上書きなんてされなくて。……そんなの、簡単に忘れられるわけがない。思い出すなんて、しない。思い返すの。一度も忘れることなく。天瀬くんのこと、ずっと。天瀬くんは、直ぐ忘れちゃうかも知れないけど、私、私は」 私は絶対に忘れたりしない、そう言い切った時、視界が揺れてパタタと滴が落ちた。 忘れたりしてやるもんか、そんな気持ちで鼻を啜る。 お腹の奥底から生まれた熱は正しくない温度で天瀬くんにぶつかってしまったが、後悔はしていなかった。 伝えられずにいた連絡ごとを伝え切った気分だった。 握り締めたままだったハンカチで涙を拭うおうした私の手に、伸ばされた天瀬くんの指先が触れる。 指の腹と指の腹が微かに触れ合い、極軽い力で引き寄せられた。 整えられた爪の形に天瀬くんの誠実さを見る。 手の平を撫で付けられると擽ったさに肩が跳ねた。 座ったまま私を見上げる天瀬くんは静かだった。 緩慢な瞬きは睫毛を細かく震わせる。 薄い唇が開くと、言葉よりも先に細い息が漏れる音を聞いた。 天瀬くんの迷うような様子を初めて見た気がする。 「……初めてキスした子なら、俺もそうそう忘れないかな」 何かを確かめるように天瀬くんは、うん、と小さく喉の奥で呟く。 それからまた、いつものように飄々と何事もなかったかのように、長い足を投げ出した。 背中を壁に預けて、首だけを下に向けている。 離れた指先を追い掛けることは出来ず、普段は気軽に触れることの出来ない天瀬くんの旋毛を撫でた。 持っていたハンカチを足元に落としてしまったが、拾おうとは思えなかった。 指先を下ろして耳の形をなぞる。 薄い耳朶が温度をなくして酷く冷たい。 耳から頬に指の腹を滑らせると、筋肉質な体に反して柔らかい肉の感触が伝わった。 雨に打たれた肌はどこもかしこも冷たそうだ。 円を描くように両頬を撫でて、両手で包み込んだ顔を上げさせた。 天瀬くんはゆっくりと瞬きを二回する。 帰りの電車がホームへ滑り込んで来るまで、後とどれくらいの時間が残されているのだろうか。 三度目に瞳が伏せられた時、私は身をかがめて唇を合わせた。 少し乾いた天瀬くんの唇に初めて触れる。 そっと唇を離して身を引けば、天瀬くんは目を開けていた。 目が合えば薄らと目元で微笑む。 「切れてる」囁き声と共に、今度は天瀬くんの方から私の唇に触れる。 切れた唇の端を彼の舌が掠めて、今度は私が目を閉じる番だった。
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