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その日は土砂降りの雨だった。
天気予報では雨だなんて一言も言っていなかったはずなのに、昼すぎには空にどんよりとした雲が広がり、仕事をようやく終えて帰路に着く途中に一気に雨が降ってきた。
「うわ〜……最悪。なにも今降らなくてもいいじゃない」
雨宿りをしている店先から自宅までは、あと10分ほどの距離。周囲にコンビニはなく、どこかでビニール傘を調達するのも難しい状況だ。
通り雨ならしばらく待つか、と思いながらカバンからスマホを取り出して雨雲レーダーを確認しようと画面を見つめる。だが、こんなときに限って充電切れになっていて、真っ黒な液晶はうんともすんとも言ってくれない。
「地図アプリ使いすぎたか……」
今日は初めて足を運ぶ訪問先が多かったから、スマホの電池を消費しすぎたのかも。ざぁざぁと音を立てて降り注ぐ雨を前に、大きなため息が漏れた。
「今日は散々な日だなぁ……」
朝も寝坊するし、電車は一本乗り遅れるし、昼ごはんに食べたパスタの店はびっくりするくらいまずかったし、日付のミスでせっかく印刷した資料はすべてパーになってしまい、そのおかげでこんな時間まで残業だ。
思い返せば、いろいろな判断をミスしてばかりの一日で、何をやってもうまくいかないことばかりだった。
「はぁ……もう、嫌になっちゃう」
気力もすっかりなくなり、その場にしゃがみこむ。「ああ〜〜」と言いながら、頭をくしゃくしゃとかき回すわたしは、さぞ怪しい人物だっただろう。
けれど、そんなことすら、もうどうでもよかった。
雨に濡れて体も冷えてきた。疲労が溜まっているのか、背中もずいぶんと重い。
「雨、やまないなぁ……。どうせ濡れてるし、もう走って帰ろかなぁ……」
誰に向かっていったわけでもない、独り言を漏らしながら周囲に視線を向ける。この通りは屋根付きの店がちょこちょこあるから、そこを通っていってみようか。
と、考えたところで、三軒先の店の軒下に何やら黒っぽい塊のようなものが転がっていることに気づく。
(何だろう、あれ……)
それが何なのかが気になってしまい、わたしは側に近寄ってみることにした。すると、その正体はすぐにわかった。猫だ。
「も、もしかして死んでる……?」
猫はわたしが近寄ってもぴくりとも動かず、ぐったりとしていた。でも、よく観察してみると息はしている。
「どうしよう……」
元気がなさそうな猫を前にうろたえる。猫は飼ったことがないし、こんなときにどうしたらいいのか分からない。ひとまずスマホで調べてみようと思ったけど、取り出してから、そういえば充電切れだったことに気づく。
「こんなときに〜……!」
今日はとことんツイテない。
「どうしよう……」
もう一度、同じ言葉を呟いて、ぐったりとした猫に近づいた。すると、ゆっくりと開かれた目。透き通るような深い蒼。その瞳を見た瞬間、びびっと体に電気が走ったような感覚を覚えた。
「えっと……大丈夫、かな?」
喋るはずもない猫に、思わず話かけてしまった。当然だが、猫は返事をしてくれない。恐る恐る手を伸ばしてみると、猫は逃げずにただわたしの手を受け入れてくれた。
(逃げる気力もないくらい弱ってるのかな……)
考えれば考えるほど、このまま放っておけない理由が増えてくる。どうしよう。疲れた頭をフル回転させて、今からのことを考えてみた。その結果、
「……うちに来る?」
猫に聞いてみるという結論に。とはいえ、猫が人間の言葉なんて分かるわけないような〜なんて思いながら、一応へらりと笑って敵意はないよ、ということを顔面で伝えてみた。猫は、ただただその宝石のような綺麗な瞳で、じっとわたしを見つめてくる。そして、見つめ合うこと数秒──。
「にゃあ」
その猫語を「連れていって」と解釈したわたしは、よし!と決意を固めて猫を連れ帰ることにした。このまま雨の中置き去りにするのも心苦しいし。
ちょうど明日は休みだから、明日の朝まで家で保護することにしよう。
「おいで」
そっと猫に手を伸ばすと、嫌がる素振りを見せることもなく、大人しくわたしの腕に抱かれてくれた。服が少し濡れたけれど、抱き上げた猫の体温が思った以上に温かく、なんだかわたしの心まで温かくなった気がした。
こうして人生初の野良猫保護だったわけだけど、まさかその猫との出会いが、わたしの人生を大きく変えることになるとは、このときはまだ知るよしもなかった。
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