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第六話
「すごい急展開じゃん、ゲツクも真っ青って感じ」
「お前、俺の話を何だと思ってんだ」
呼び出されたバーのカウンターで、俺を呼び出した張本人である同じ顔をしている男は俺の隣で笑いながらそんな言葉を口にする。
この春から夏に至る迄の俺とナツによる一連の出来事を話した相手は双子の弟——鷹史だった。「
でも、それで全力で逃げようとした結果がロス行きって、思い切ったなぁ」
そう言って胡散臭い笑い方でカラカラと笑い続ける鷹史を咎めるような視線を向けた俺に、彼は動じる事なく「ていうか、言葉は大丈夫なのか? 隼人が英語できるイメージが全くないんだけど」と言葉を重ねる。
「まぁ、何とかなるだろ。向こうで語学学校通う予定だし」
「高校一年を三回やった奴の言葉とは思えないな」
揶揄う口調のままで鷹史は俺の言葉を混ぜ返して、俺はそれに口籠る。高一で二留したのは事実だからこそ否定ができない。
言葉を返せずにいた俺に、鷹史は笑って言葉を重ねる。
「しっかし、兄弟揃ってロクな恋が出来ないっての、笑えるよな」
一度結婚を失敗して、実家とも断絶している双子の弟はそう口にして笑う。俺が馬鹿ばかりやっていた頃、優等生であった彼との仲はあまりいい方ではなくて。
こうやって顔を合わせて酒を飲むようになったのは、鷹史が離婚して両親と仲違いした後からだ。
良くも悪くも開き直った鷹史は、大人になってから顔を合わせば昔よりもとっつき易い人間になっていて、それはきっと俺の方もそんな鷹史を受け入れる程度に人生を重ねてきた結果なんだろうと思う。
「それにしても二十六歳下の女の子に熱烈な求愛されてるって、隼人としてはどうなの? 満更でもなさげだけど」
酒で軽くなっているのだろう鷹史の口からはポンポンと言葉が飛んでくる。そんな彼の言葉に、俺は大きな溜息と共に今まで誰にも言っていなかった言葉を吐き出すのだ。
「——満更じゃねぇから、困ってんだよ」
親友の娘に告白されて、嫌だとは決して思わなかった。
自分の名誉の為に言うが、ロリコンではない。
それこそ赤ん坊の頃から知っている彼女から、好意を持たれて——それを告げられて。それこそ満更でもなかったのだ。
しかし彼女はまだ高校生で、俺はいい年したおっさんだ。ついでに言えば彼女の両親より幾つか年上だ。結婚した事など一度もない俺自身にとっても娘のように思っていた少女は、いつのまにか少女には見えなくなっていた。
バンドのメンバーであるウシオからかつて言われた言葉が、今更呪いのように付き纏う。彼女の好意に応えれる程、俺は馬鹿にはなれなかったし——抱えるものが多すぎた。
ギターを掻き鳴らし歌いながら過ごして、音楽が好きという気持ちだけでここまで走ってきた俺は、知らないうちに多くのものを抱えてしまっていたのだ。
そんな俺の言葉に、鷹史は笑って「狡い大人が逃げた先に、どんなエンディングがあるんだろうな」なんて口にして。
「これが映画なら、ラブソングの一つでも書けそうだ」
そう返した俺に、二人して笑う。そうでもしなければ、やってられなかったのだ。
「ナツちゃんとは、もう会わないつもりか?」
「少なくとも、日本を発つまでは会うつもりはねぇよ」
彼女と最後に交わしたやりとりは、俺がロスに行くというニュースが解禁されたその日、メッセージアプリで送られてきた短い文章の応酬だった。
彼女の顔を見たら決心が揺らいでしまいそうだった俺は、ナツからのメッセージに返信する事をやめていた。それは、ナツと連絡を取るようになってから初めての事で。きっと俺のやっている事は、無意味に彼女を傷つけているのだろう。
結局俺は、ナツに対して素直になる事すら出来ずにいる。
「悪い大人だな」
少しだけ責める口調でそう口にした鷹史に「自覚はある」と答えた俺は、深く息を吐き出す。狡くて悪い大人になったもんだ。
いっそ幻滅してくれればいい。そうして俺の事をすっかり忘れて、彼女と同年代で俺が知らない男と幸せになってくれ。
身勝手な祈りの言葉は口に出すことすら出来ずに、その日の俺はグラスに満たされたアルコールを一気に呷る事くらいしか出来なかった。
「久しぶりだね、リョーマ」
片手をひらりと振って待ち合わせの場所に現れたのは、二歳歳下の元同級生だった。
会社帰りなのだろう、カジュアルになりすぎずしかしスーツと言うほど硬すぎないビジネスカジュアルの装いで俺の前に現れた彼女は世界的に有名なこの店のロゴが入った紙カップを片手に俺の座る席の向かいに腰を下ろす。
「ホント、ご無沙汰って感じだな。最近どうよ」
「夏海がねぇ、ずぅっと落ち込んでる位かな」
何の気もなく彼女に近況を訊ねれば、彼女はのんびりとした声で言葉を返す。しかし、その言葉は数ヶ月前の俺が想像していた事の一つで——現実にならなければいいと思っていた事だった。
「ナツには悪いことしちまったな」
思わずポツリと零した言葉に、ナツの母親である元同級生——初瀬川明日香は小さく笑う。
「ねぇ、リョーマ」
高校の頃と同じような柔らかな語調で彼女は俺の名を口にする。
「その悪いことって、どこにかかる?」
俺が零した言葉の真意を測ろうとしているのだろう彼女は、俺へと更に言葉を重ねていく。
「ステージでバースデーソング歌った事? 仕事について隠してた事? 夏海から逃げてロスに行くこと? ——それとも、夏海に恋しちゃった事?」
あくまでも柔らかな言葉で、しかしその言葉は俺を追い詰めていく。にっこりと笑みを浮かべながら、コーヒー片手に言葉を紡ぐ明日香は高校の頃から全然変わらない。
彼女やその旦那達と高校時代に組んでいたバンドの中での力関係も、紅一点だった明日香が一番強かったのだ。俺は観念して「全部だな」と白状する。
そう、全部だ。
ハヤトが俺だって隠してたことも、それをステージ上でバラしたことも、知らないうちにナツに恋をしてしまっていたことも。
全部彼女に対して悪いことをしたと、そう思っている。
「まぁ、夏海がそれ聞いたら怒るだろうから言わないであげるわ」
肩を竦めて彼女は笑う。
「別に私も修平も、リョーマと夏海がどうなろうが当人達の勝手だって思ってる事だけは教えといてあげる」
カラカラと声を上げて笑いながら、明日香はそんな事を俺に告げる。
「両親公認かよ」
思わず吐き出してしまった長い呼吸に気付いた彼女は、鷹揚な笑みを浮かべて「リョーマなら知らない仲じゃないし安牌でしょう?」なんて言葉を返すのだ。
「ったく、親がそれで良いのかよ……あぁ、そうだ。これ約束のやつ」
すっかり忘れそうになってしまっていた元々の目的を思い出した俺は、封筒に一纏めにしたそれを明日香へと渡す。封筒の中には四枚のチケット。
この国を出て行く前の、最後のツアー。
最終日の公演、関係者席のふた席と——無理言って用意して貰った前方真ん中のふた席。
封筒の中に入っているそのチケットに書かれていた席番号を見た明日香は「本当にリョーマって夏海に甘いわね!」と笑うのだ。
「それにしても、本当に夏海に会わずに行くつもり?」
「それ、弟にも言われた。会うつもりねぇから、明日香にチケット渡してんじゃん」
その頃の俺によるナツの避けっぷりは尋常じゃなかった。昼間のピアノフォルテ通いはすっかり辞めて、深夜の閉店直前にたまに顔を出すくらいに頻度が減って、たまに送られてくるナツからのメッセージも無視して——着信拒否を掛ける事だけはどうしてもできなかったが——確率は無いに等しいが、街で会うこともないように外に出る事も殆どしない引きこもり生活を決め込んで。
そこまでしてナツに会う事、会ってしまう事を避け続けていたのだ。
「会って、どうするんだよ。「俺はお前の事がお前と同じ意味で好きだけど、世間の目あるので応えることができません」とでも言うのか? それならいっそ忘れられた方が良い」
俺の言葉に、明日香は「悪い大人だねぇ」なんて笑って席を立つ。
「悪い大人でいいよ、それにアイツだってこの先大人になっていけば分かるだろ。この先世界が広がれば、俺なんかよりいい男は沢山いるもんだ」
彼女に倣い腰を上げながら、俺は肩を竦めながら分かりきった現実を口にする。まだ小さな世界の中にいる彼女が、広い世界を見たときに俺を選ぶというのは考え難いだろう。
だからこそ、俺が出来る事なんて彼女を縛らず広い世界に出すくらいの事で。彼女を可愛がる事がもう出来ないというのは寂しいが、この先俺の知らない誰かと共に人生を歩み始めるのは——面白くない、というのが本音だけれど。
それでも、そうなればまた時折顔を合わせる事くらいは出来るかもしれない。俺とナツの関係は、それくらいがきっと丁度いいのだ。
「あんまり、私と修平の娘を侮らない方がいいわよ」
最後にそれだけを告げた明日香は、思わず俺が口走ったどういう意味だという言葉に返事をする事なく人混みの中へと消えていった。
——そして俺は、ライブに訪れたナツの姿を一方的にその目に焼き付けてから、逃げるように日本から飛び立ったのだ。
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