22人が本棚に入れています
本棚に追加
第七話
記憶というものは、声から薄れて行くという。
私は、あの人の声をうまく思い出せなくなっていた。イヤホンから流れてくる歌声を聴きながら、私は窓の外をぼんやりと眺める。心地よく耳に入ってくるその人の声を、私は忘れないようにと何度も何度も聴き続けていた。
最後に彼の姿を見たのは、高校二年の秋だった。前列中央、神席とも言えるその場所で。彼は私を視界に入れて、私の為に作ってくれた古い曲——周りの人々にとっては新しいアルバムの中に入っていたその曲を歌って。
私はそれを忘れないようにと、何度も何度も再生した。瞼の裏に浮かぶ、歌っている彼の姿は『シグナルズのハヤト』で。
私がこの数年間聴き続けている歌声も、ハヤトのものだった。私が忘れたくなかったのは、ハヤトじゃなくてリョーマのものだったのに。
私が知っているリョーマの声が、ハヤトのものに上書きされる感覚に言いようもない恐怖を覚えて泣いたのは四年も前の事だったか。過去の思い出を指折り数えて私は気付く。
彼と離れて、五年の歳月が流れていた事に。
「五年かぁ」
五年なんてあっという間だという人もいるだろう。けれど、二十を少し過ぎた程度の小娘による五年というのはそこそこ長い期間であって。しかも五年間会えずにいる相手というのが私が産まれた時からずっと、月に一度程度は必ず会うような相手だったのだ。
この五年間、私の見る景色は目まぐるしく変わっていった。例えば高校を卒業して大学に入学したとか、成人したとか、卒業単位を全部取り終えて大学の卒業が決まっただとか、就職先が決まったとか。
そんな、めまぐるしく変わっていく世界の中でも、私はどうしても自分の恋心を捨てるなんてことは出来なかったのだ。
「それって、本当に恋なのかねぇ」
そう言われたのは、二十歳の誕生日にピアノフォルテに行った時の事だった。
その日、リョーマからの数年ぶりに届いたメッセージ——つまり、『誕生日おめでとう』それだけを自慢する為にスマホを握りしめて訪れたピアノフォルテで出逢ったのは、一見するとリョーマによく似ていたけれどどこか胡散臭い身綺麗な男性で。
カウンターの端でロックグラスを手にしていた彼は、同じカウンターでも少し離れた所でマスターの鷹晴さんと話していた内容を混ぜ返すように声を投げてきたのだ。
「二十歳の誕生日って事みたいだし、おじさんがお酒をおごってあげようかな」
そんな言葉を口にしたその人は、鷹晴さんに私が飲めそうなものを出してあげて、と言葉を重ねる。私が彼を訝しげに見ていれば「身元は確かな人だから」という鷹晴さんの言葉と共に、少しだけ茶色みがかった乳白色のアルコールが満たされた丸みを帯びたグラスが私の前に置かれるのだ。
「ベイリーズミルク、ミルク多めでね」
その飲み物の名前を教えてくれた鷹晴さんと、ひと席分距離を空けて座り直した名前も知らない男性に一言礼を言ってそれに口を付ければ牛乳よりも濃いクリームと甘味、それからアルコールのほろ苦い味が口の中で広がっていった。
「おいしい」
思わず溢れたその感想に二人の男は楽しげに笑みを浮かべて、隣に座っていた男性は思い出したかのように「僕は了馬鷹史って言うんだ」と、その名を名乗った。
「りょうま、たかふみさん……って、もしかして」
既視感のある名字に、思わず彼をまじまじと見つめてしまった私に了馬さんは私の知っているリョーマと同じ作りをした顔で意地が悪そうな笑みを浮かべる。
「そ、隼人とは双子でね。一応あっちが兄って事になってるけど、高校を卒業したのは僕の方が早い」
カラカラと笑いながら、氷と琥珀色の液体で構成されたグラスを傾けた彼は最初に私に投げ掛けた言葉を再び口にする。
「ナツちゃんの、その気持ちは——本当に恋で合ってるの?」
リョーマと同じ顔をして、多分殆ど同じなのだろう声で、リョーマよりも意地の悪い言葉を投げるその人を私は敵意を籠めて睨み付ける。
「私が恋だと思ってるんだから、世界中の誰もが、リョーマが、勘違いだって言ったって——私のこれは恋で合ってると思ってますけど!」
本当はリョーマに言ってやりたかった言葉を、私は了馬さんへと向けて放っていた。そもそも、恋なんて定義が曖昧なものを、合っている合っていないで語るなんて言うのが間違いなのだ。
だから私は、完全に拒絶されるまでは諦めようなんて思ってない。例えば、嫌いだから目の前に現れるなだとか、娘にしか見えないから恋の相手は出来ないだとか、そういう決定的な言葉がなければ想う位は許してほしい。
正直に言ってしまえば、私はリョーマに対して腹を立てていたのだ。私の告白に対してわざと「舞い上がってるだけだろ」なんて嫌な言葉を使ったり、何も言わずにロサンゼルスへ逃げたりした事に対して、腹が立たない訳がない。
腹を立てたって、好きなものは変わらないのが悔しいけれど、好きになってしまって——それ以上に好きな人など未だ私の前には現れないのだから仕方がないと諦めの境地だ。腹立たしげについ声を荒げてしまった私に、隣に座る了馬さんは一度きょとんと瞬きをし、それからふは、と吹き出すように笑った。
「そりゃぁそうだ!」
どこか楽しげに声を上げた彼を見て、今度は私が虚をつかれたような顔をしているのだろう。何が起こるのかと私たちを見守ってくれていた鷹晴さんの「鷹史くん、ナツミちゃんを揶揄うのも程々にしてあげてな」という声が飛んでくる。鷹晴さんの言葉に、了馬さん私たち二人に短く謝ってくれて。
「昔隼人からナツちゃんの事は聞いててね。こう見えてブラコンなおじさんはちょーっと試したくなっちゃった訳だよ」
そう言って優しげな笑みを浮かべた了馬さんは言葉を重ねる。
「こんなまっすぐな可愛い子ちゃんで、おじさん絆されちゃった。隼人を連れてくる事は出来ないけど、お酒奢ってあげる位は出来るんだよね」
そう言って次々に美味しいお酒を勧めてくれた彼のペースで私はその夜飲みまくり、最終的に泥酔した私をタクシーで家まで送り届けてくれたのだ。
『これ、相手が僕だったからいいものを、知らないおじさん相手にすると危ないんだからね?』
いつの間にか交換していたらしい連絡先に、彼はその一文だけを送ってくれて。
私と了馬さんの交流は頻繁ではないものの、今でも途絶える事なく続いている。
『そろそろ着く頃だよね、頑張れ!』
窓の外にミニチュアを遠くから見たような町並みが見えるようになった頃、機内で繋いでいたWi-Fiを通して了馬さんからのメッセージが届く。二十歳を過ぎてからの二年と少しの間、時折顔を合わせていた彼は出会いは兎も角としてそれからずっと私を気にかけてくれていた。今回の旅行も、彼の手引きがなければ出来なかった事だ。
イヤホン越しにうっすらと耳に届いてきたアナウンスは、着陸が近い事を告げていた。
四年の年月を使って卒業単位を掻き集める事が出来た私は、卒業旅行と称して四年間コツコツと貯めていた貯金を叩いてこの席に座っている。資金を用意して飛行機のチケットとホテルも手配した私にこっそりと彼が教えてくれたのは、私がどうしても見つける事が出来なかったパズルの最後のひとピース。
わざわざアルファベットとカタカナで書いてくれたそのメモを握りしめて、私を乗せた飛行機はロサンゼルス国際空港へと降り立った。
『目にもに見せてやりますよ!』
了馬さんにそう返した私は、スマホの音楽再生アプリを停止してイヤホンを外す。
そのアプリには五年間流し続けていたシグナルズの名前と、バースデーソングというタイトルが表示されていた。
最初のコメントを投稿しよう!