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第八話
防音が施された——というよりもデモの音源程度は録音出来るように整備したこの部屋に置かれたアコースティックギターの中で、デビューした自分へのご褒美と称して少し無理をして買ったギブソンを握ったのは気まぐれだった。とは言え自分の手に馴染んだお気に入りではある。
この五年間、幾度も弾いたコードの並びは最早俺のルーティンで。
メジャーコードで構成されたこの曲は、気付けば作ってから二十三年もの時が過ぎていた。ある女の子の為だけに作ったその曲をつま弾けば、今でも彼女の笑顔を思い出す事が容易く出来ている自分に気付く。
彼女を最後に見たのは、ステージの上からだった。人気ロックバンドのギターボーカルとしてステージに立つ俺と、そのアーティストを見にきた客の距離で見た彼女は今にも泣き出しそうな顔で俺を睨みつけていた事を覚えている。
そんな顔をさせたい訳じゃなかったけれど、その頃の俺は逃げる事に精一杯で優しく諭す事すら出来ずにいた。彼女の元から逃げ出してから五年、俺は四十三年過ごした母国から勢いだけで逃げ出してこの地で何とか生活していた。
慣れたコードから気の向くままに転調を重ねて、新しいメロディをハミングしながら俺はこの五年間を思う。
言葉もろくに出来ずに訪れたこの国で、拙いながらも必死で暮らした一年目。
何とか言葉に慣れて、生活リズムが出来上がった所でシグナルズの仲間がこっちに来てくれてこの地で初めてアルバムを作ったのが二年目。
三年目には高校時代に組んでいたバンドの仲間で、今や著名なピアニストになっていた片桐さんと、ピアノフォルテのオーナーでサクソフォニストでもある結城さんが二人揃って遊びに来てトリオでアルバムを作った。
四年目には言葉の面でも不安がなくなって、広大なこの大陸でバイクを走らせまくった。日本で取った免許を国際免許に書き換えるのをすっかり忘れていた為に、こっちに来て二年目でバイクだけは免許を取った。ハーレーで荒野の一本道を走るなんて、古い映画のワンシーンのようで楽しかったのを覚えている。
目まぐるしく真新しい日々を過ごしていば、あっという間に五年が経っていた。元々長かった髪は、更に長く伸びて。どうせ縛っているのだからと縛って長すぎると思った時に毛先を適当に切り落とすという、まるで爪を切るように切った髪は肩の下あたりまで伸ばしっぱなしになっていた。
今日も適当に一括りにした髪を背中に流して、飽きるまでギターを掻き鳴らす。そんな予定だったのだ。
突然予定にはないチャイムが鳴らされるまでは。
「——今日は何の予定もなかったよな?」
自分で自分に確かめるようにポツリと言葉を溢した俺は、ギターを置いてゆっくりと玄関に向かう。玄関脇にある窓から玄関の外にチラリと見える人影が不審人物では無さそうな事だけを確認して、そっとドアを引く。
日本と違い内側に開くタイプのドアの向こうに立っていたのは、見覚えある少女の面影を残した若い女性の姿だった。
「——嘘だろ、ナツ」
思わず溢れた言葉に、目の前に立つ彼女は何度も俺に見せてくれた勝気な笑みを浮かべて、俺の記憶の中の少女より随分と短くなった髪を揺らして淡い桜色の唇を開いた。
「リョーマが帰ってこないから、私が来ちゃったよ」
玄関を挟んで突っ立っているのも何だしと、リビングに招き入れたナツはちょこんとソファに座っていて。どうにも現実味がないその存在をどうしたものかと俺はキッチンで小さく唸る。
冷蔵庫を開いて、一度閉じて。そしてもう一度開く。
無駄な動作を幾つか重ねて俺が手に取ったのは、コーラの瓶が二つ。コップは必要だろうか。一応一つだけコップを持って、俺は意を決して彼女の元へと戻るのだ。
「コーラとビールしか無かった」
言い訳のようにそう口にして、彼女の前にコーラの瓶とコップを置く。俺はソファの横に置いてあるスツールに腰を下ろして、瓶を開けてそのまま喉に流し込んだ。甘ったるい炭酸が喉を通り抜けるのを感じながら、俺は次の言葉に迷って。
そんな俺に、ナツは「相変わらず不健康な生活してるの?」と笑い、そんな小言みたいな彼女の言葉すら懐かしさを感じてしまう。
「不健康で悪かったな」
彼女の小言に憎まれ口で返して、五年離れても変わらない言葉の応酬に少しだけ安心して——彼女が此処を知った理由をナツに訊ねる。
「で、何で来たんだ?」
「飛行機とタクシーかな」
俺の言葉を混ぜ返すように答える彼女に思わず大きく溜息が出てしまう。
「手段を訊いてんじゃねぇよ。修平にも明日香にも住所までは教えてねぇ」
この場所を知った理由を問い掛ければ、ナツは悪戯っぽい笑みを浮かべて少しだけ皺がついた一枚のメモ用紙を俺へと差し出す。
カタカナとアルファベットでこの家の住所が書かれたその紙の筆跡には見覚えがあった。
「——嘘だろ?」
ナツはこの五年の間に、思わぬ人物とも交友を持っていた事を知った俺は思わず嘘だろ、と言葉を零す。そこに残されていた文字を書いた主は、他ならぬ俺の弟だった。
「了馬さんが教えてくれたんだよね」
ネタばらしをするように告げられた彼女の言葉に「何やってんだアイツ」と思わず零せば、「二十歳の誕生日に会って、会ったら必ずお酒奢ってくれる」なんて要らん情報が返ってくる。
何やってんだ、あいつ。
胡散臭い実弟の笑顔が脳裏を過り、俺は思わず盛大に溜息を吐き出して。ナツが成人してから既に数年は経っている。鷹史がナツと知り合ったという事を、俺は一度も奴から聞いていなかった。
何度かそれを俺に伝えるタイミングはあったろうに、それを告げなかったというのはきっと今日この日の為だろう。思わず吐き出してしまう幾度目かの溜息に、ナツが眉を下げるのが見えた。
「いや、お前が悪い訳じゃない。鷹史が面白がった結果だろ」
肩を竦めた俺は、瓶の中に残ったコーラを飲み干して。
「滞在予定はどうなってんだ、泊まるとことか、同行者とか」
俺の疑問に、ナツはぽんぽんと言葉を重ねていくのだ。
「三日間、明後日昼の便で帰る。近くにホテル取ってある、一人旅だよ」
その回答に頷いた俺は壁に掛かったバイクのキーを取って、彼女に言葉を返す。
「仕方ねぇから、案内くらいはしてやるよ。どうせ何も考えてねぇんだろ」
そう言ってやれば、彼女は待ってましたとばかりに笑みを浮かべて「ディズニー行きたい!」と晴れやかな声を上げるのだ。
「この時間から行くには時間が足りねぇだろ。ディズニーは明日な」
昼を少し過ぎた辺りを指し示す時計の針を眺めながら告げれば、ナツは少しだけつまらなそうに「はぁい」と言葉を返して。
「じゃぁ、今日はどこに連れてってくれるの?」
チビだった頃から変わらない期待に輝く瞳で俺を見つめる彼女に、思わず笑みが溢れる。
「とっておきの所。ちなみに、昼は食ったか?」
俺の問いに彼女は首を横に振る。
「こっち着いて、ホテルに荷物置いてからすぐに此処来たから」
猪突猛進の気があるナツの言葉に納得した俺は「ウチに食うもんねぇからな、まずは昼だろ」と、彼女が持っていたハンドバックを入れるようにとクローゼットの中から引っ張り出してきたリュックを投げて彼女を外へと連れ出した。
ナツを連れて向かったガレージに置かれているのはハーレーダビッドソン、フォーティーエイト。
タンデム用にカスタムしておいて本当に良かった。ヘルメットを渡し、俺も同じように使い慣れたそれを被れば幾人かの友人や仲間を乗せたそのシートに彼女を誘う。「スカートで来たらどうするつもりだったの」という彼女の憎まれ口には「俺のズボン貸すわ、こっちで車の免許取ってねぇんだ」と返して。
「明日は片道一時間のタンデムだから覚悟しとけよ」
そう重ねれば彼女は「受けて立ってやる」なんて挑戦的な言葉を返すのだ。そうして俺たちは二人乗りのバイクでこの街を駆ける。
長蛇の列に並びながら、互いの五年間を報告し合った老舗のホットドック屋からスペースシャトルの本物が展示されているカリフォルニアサイエンスセンターへ。展示をひと通り見たらウォークオブフェイムを冷やかして、サンタモニカに着いた頃には夕暮れ時で。
海に沈んでいく夕陽と、ライトアップされた遊園地が見えるテラス席で夕飯を食べて。遅くなる前にホテルにナツを届けて、翌朝にまた彼女をピックアップする。
彼女を後ろに乗せて一時間程バイクを走らせれば、アナハイムのディズニーランドパークに到着する。大勢のキャラクターに、作り込まれた夢の国。
当日券を買って飛び込んだ夢の国で一日過ごして、俺はまた彼女をホテルまで届けて。この二日間、ナツはいつも通りの笑みを浮かべて、楽しそうにロサンゼルスの非日常を過ごしていた。
もっと詳しく言えば、彼女が俺の事をハヤトだと知る前と同じようにして、過ごしていたのだ。
「見送りも、来てくれたんだ」
少し驚いたように笑ったナツに「暇だったからな」と言葉を返す。出発ロビーの待合所で、戯れに送ったメッセージは違わず彼女に届いて。
「コレ、修平と明日香にお土産。あと鷹史にはこっち、渡しといてくれねぇか?」
二つの小ぶりな紙袋を渡せば「了解」とナツは笑って、逡巡するように少しだけ視線を揺らす。その揺れた瞳が、俺に向けられた時に感じたのは忘れちゃいねぇんだな、という感想。この二日間の彼女の振る舞いは、昔のそれと同じで、てっきり俺は吹っ切れていたのかと思っていたのだ。
明日香に言われた言葉が今更脳裏を過ぎる。すまん、お前らの娘の事、侮ってたわ。心の中でだけそう呟いて、俺は視線を逸らす事も出来ずに彼女の言葉を待つ。
どれだけの間、俺たちは見つめ合っていたのだろう。とても長いようにも、短いようにも感じたその時間は、彼女が溢した言葉によって途切れた。
「やっぱり、私は、リョーマのことが好きだよ」
これは、それを確かめる為の旅だったと、彼女はいっそ清々しく口にした。返す言葉を見つけられずに居る俺へ、彼女は綺麗な笑みを浮かべて言葉を繋げる。
「この五年間、ずっとリョーマの事考えてた。声を忘れたくなくて、シグナルズの曲をずっと聴いて——でも、それはリョーマじゃなくてハヤトの声だった。私が好きなのは、ハヤトじゃない。リョーマなの」
まっすぐに告げられたその言葉を、嬉しくないなんて思えやしなかった。二十六も歳の離れた少女は、いつしか大人になっていて。それだけ、俺も歳を取っていて。二十六年という年月は、俺とナツの間で決して縮まる事がない時間なのだろう。
緩みそうになる頬を、無理やり引き締めて——それでも少しだけ口元が緩んで。しかめっ面をしながら口だけ笑っているという複雑な表情になっているのだろう俺に、彼女は笑って「もう、答えは要らないって事でいいかなって」と告げる。
「ナツ、俺は……」
言葉が整理できないままに零れ落ちた俺の声に、ナツはゆっくりと首を横に振る。
「いいの、初恋は叶わないものでしょ。でも、私はリョーマの事が好き。それだけはちゃんと、言いたかったの」
少なくとも、今の私に対しては条例を盾にできないでしょう? すっきりしたような顔で、それだけを告げた彼女は、悪戯っぽく笑みを浮かべてじっと俺を見つめる。何も言えずに居た俺へと彼女は最後に明るい声で言葉を紡ぐのだ。
「じゃぁね、リョーマ。ライブやる時はチケット取るから」
そうしてナツは、一人凛々しく保安検査のゲートへと向かっていった。
ロサンゼルス国際空港から、あても無くハーレーで駆けていく。適当な道を適当に転がして辿り着いたのは、彼女と訪れたサンタモニカ。
駐車場にバイクを停めて浜辺に腰を下ろしてぼんやりと波の音を耳に入れながら、俺はナツの事を考えていた。この五年間、目を背けようとして背け切れなかったツケが、此処まで追ってきたのだろう。
短く切り揃えられたショートカットを揺らしながら、ピンと伸ばされた背筋で雑踏に消えていった彼女の後ろ姿を思いながら、思わず俺の口からは「いい女になりやがって」なんて言葉が溢れ落ちる。
狡い大人が逃げた先に何があるのかと言ったのは、確か弟だったか。
「教えてやるよ」
恐らく日本に居るのだろう、ナツに手を貸しやがった弟に向けてポツリと言葉を零す。
「聞き分け良い顔した良い女に、年甲斐もなく惚れてるオッサンが海辺で黄昏るんだ」
言葉に出すと、どうしようもなく情けない大人の姿で。彼女がああまで言ったなら、もう俺が彼女を掴むしかないのだろう。
彼女が使った言葉が「じゃぁね」なら、きっともう彼女が俺の元に来る事はない。何せ、五年前まではいつも「またね」と別れていた相手だったのだ。
そう思えば、やる事は簡単だ。新しいメロディが、頭の中を駆けていくのを感じながら俺は随分と暗くなった浜辺から腰を上げる。
——俺はもう、我慢する事も逃げる事も、したくはなかったのだ。
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