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転.ことのはじまり
『それにしても――まぁ、本当に大変だったねぇ』
据え置き端末の液晶ディスプレイの向こう、眞壁氏は笑っているとも困っているともつかぬ表情で言葉を返した。
『いろいろ変わったことに巻き込まれるヤツだけど、生け贄にされかけるとか、流石にはじめてだろうな』
そう言って、栗毛の馬族男性は白い歯を見せて笑った。
着ているのは白地にハート模様の派手なパジャマ。布地の光沢からすると素材はシルクか。
彼が滞在している場所の現在時刻は分からないが、翌日あるいは数時間後に仕事があるとしたら、引き留めるわけにはいかない。
遅い時間にすみませんでした。また今度ゆっくりお話ししましょう。
そう言ってビデオチャットのルームから退出しようとしたところで
『ああ待って! 君とはまだ、ロクに話をしていなかったね』
呼び止められて、そういえばそうでしたねと、言葉を返す。確かに、引っ越して早々に挨拶くらいならばした。
今回も柴本の捜索で色々とお世話になったけれども、当然ながら関係のない話をするどころではなかった。
『明日というか、今日は休みだから時間は心配しなくていい。ずっと君と話をしてみたいと思っていたんだ』
そうは言っても、わたしの毎日は柴本ほどスリルに溢れていない。平凡で退屈。それがわたしのすべてなのだ。そんなことをつい口を滑らせると
『その思い込みは良くないよ。あと、柴本の前でそういう話をすると怒るから、ダメだよ』
ああ、だから時々、話していると急に機嫌が悪くなることがあったのか。
わたしはどうしても、自分とその生い立ちを好きになれない。だからなのか、つい卑屈な物言いをしてしまう。
河都に引っ越してからは、それを直そうと心掛けているのだけれど、長年染みついた癖はすぐには変えられない。
『そうだ。君に頼みたいことがあるんだ』
何でしょうか? 出来ることならばと返すわたしに
『君の周りで起こったことを、メールでぼくに知らせてくれないか?
内容は何だっていい。料理や酒の美味しい店を見つけたとか、道端の花が綺麗とか可愛い猫がいたとか。
あとは柴本のことでもいい。あいつは君と違って、文章で何かを表現するのは苦手だからな。
最低で週に1回くらい送ってくれれば――そうだな、出来栄えに応じて翌月の家賃を割り引こう』
――え?
元々、駅から遠く離れているとはいえ、部屋の広さや設備からすると破格とも言える家賃設定なのだ。
大丈夫なのかと問うと、眞壁氏は続けて
『もし気が向いたのならば、もっと高い頻度で送ってくれて構わない。
なんなら毎日でもいいよ。追加のインセンティブを用意することを考えよう。
うん、口約束じゃ不安だよね。
あとで電子契約書をメールで送るから、応じてくれるならサインして送り返して欲しい。
きっと君にとっても悪い話じゃない筈だ』
何も言い返せないでいるわたしをよそに、すらすらと眞壁氏は言葉を続けてから大あくびをし
『ごめんよ。やっぱり眠いや。それじゃ、柴本にもよろしく伝えてくれたまえ。良い返事を期待しているよ』
あ、あの、ちょっと? ――あ、切れちゃった。
直後に、ポンと送られてくるメールを開く。
簡潔に書かれた契約書を何度も読み直し、少しだけ躊躇ったけど、それにサインをした。
こうして、柴本との毎日を綴っては、眞壁氏に送る生活が始まった。
そして、はじめての報告である件の一部始終を氏は大層気に入ったらしく、翌月の家賃は無料になった。
(了)
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