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 その日の朝、珍しくいい事が起こった。  冷たい風に晒されながら職場へ向かう途中で、前から歩いて来たイケメンに、駅までの道を尋ねられた。年齢はわたしと変わらないくらいだろうか。端正な顔立ち、一八〇センチは軽く越えていそうな長身に、やたら長い脚。キャメルのトレンチコートと黒いマフラーが似合っている。テレビに出ているアイドルやモデルと遜色ないか、それ以上と言えるくらいだ。 「この先しばらく真っ直ぐ行ったら、交差点があります。そこを右に曲がって、商店街の中を真っ直ぐ進むのが最短ルートです。商店街出たら正面に見えますよ」  そう説明した後で、雑だったかな、わかり辛かったかなと心配になったけれど、イケメンの顔に、ぱあっと笑みが広がった。 「ああ、良かった。こっちで合ってたんだ。有難うございます! とても助かりました」 「いえいえ……とんでもない」  わたしはやっとそれだけ言った。本当に素敵な笑顔で、ドキドキした。  イケメンは軽く頭を下げると立ち去ろうとしかけ、 「あっ」  わたしの顔を見て、何かに気付いたように声を上げた。な、何? 顔にゴミか何か付いてる? 「唇から血が出てますよ」  イケメンは自分の唇──勿論形は整っていて、程良い血色。そんなに乾燥もしていないようだ──の右下を指差した。「右のこの辺に」  わたしは言われた通りに唇を触り、指先に視線を移した。少しだけれど、赤いものが付いている。 「そういえば、何となく痛いと思った……」  家を出る前にリップクリームをたっぷり塗ってきたけれど、極度の乾燥肌のわたしの唇には、あまり通用しない。 「これ、使ってください」  イケメンはコートのポケットから、未開封のポケットティッシュを取り出した。 「え──」  それからイケメンは何と、驚いて固まるわたしの右手をそっと取ると、ポケットティッシュを優しく握らせた。 「しょぼいですが、お礼って事で。それじゃあ」  イケメンは、はにかんだような笑みを見せて小さく頭を下げると、駅方面へと去って行った。  もうね、これだけでわたしのやる気は爆上がりだった。しかも今日は、重守さんは別のグループの監督だったから、尚更に。  わたしのグループでは、始業開始から、ベテランさんでも嫌がるような面倒臭くてちょっと難しい商品の組み立てがあったのだけれど、わたしは今までにないくらいに頑張ったんじゃないかと思う。そして何と、午前中、一つのミスも出さなかった。隣の席のベテランのおば様からも、凄いわね、私があなたから教わりたいくらいだわ、なんてお褒めの言葉も戴けた。お世辞であっても嬉しかった。  全ては、通勤途中で出会ったあのイケメンのおかげだ。彼の優しさ、親切さ、そしてあの素敵な笑顔にパワーを貰えたからだ。  また会えないかな。でも彼は、駅までの道を知らなかったのだ。この辺の人間ではないのだろう。  同じ作業は午後もずっと続いたけれど、同じくわたしの集中力と正確さも続いた。このまま一日、トラブルもなくやっていけそうだった。  定時まであと二時間を切った辺りで、事態は急転した。  わたしのグループで組み立て済みの商品から、最終チェックの段階で大きなミスが発見された。しかも一つや二つどころじゃなく、そこそこの数があった。 「グループ全員、作業の手を止めて! 全検だ全検!」  責任者の一人が声を張り上げると、グループ内の空気が張り詰めた。 「こりゃあ酷いよ。気付かなきゃおかしいミスがいくつもだ。犯人探しをするつもりはないが……後日一人ずつ面談して、どんな風に作業しているのか聞く事になると思う」  グループの全員がこう思っているに違いなかった──わたしじゃない、わたしはちゃんとやっていた、わたし以外の誰かのミスだ、と。そしてそれは、わたしも同じだった。  責任者がその場を離れた後、隣のグループで監督をしていた重守さんが、何故かこっちのグループにやって来た。しかもその視線は、わたしの方に向けられている。  嫌な予感がした。  そしてそれは的中した。  重守さんは、作業机を挟んでわたしの目の前に仁王立ちすると、こう言い切った。 「どうせあんたでしょ。あんたがやらかしたんでしょ」
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