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「ああ……恐ろしい恐ろしい……」
公園の生垣の向こうから聞こえる声に、俺はうっかり持っていたコーヒーを落としそうになった。
キョロキョロと見回して辺りを探る。人気のない、夜の公園。ここ数年市が力を入れている大きな緑地公園で、大きな人工池をぐるっと囲んだ、緑あふれる遊歩道が自慢だ。昼には家族連れやカップル、写真を撮る人や釣りに来る人で賑わうが、夜のこの時間はたまにランニングや犬の散歩に来ている人とすれ違う以外は、ほとんど人気がない。俺は就活の帰りで、これから家に帰って大学の課題をしなければいけないことに嫌気が差して、慣れないスーツ姿のまま、公園を散歩しながら眠気覚ましのコンビニコーヒーを飲んでいたところだった。
その道すがら、遊歩道に寄り添うように植えられた生垣の向こうから、消え入りそうな女の声が聞こえたのだ。生垣はときどきガサガサと小動物が通り過ぎるように揺れている。
「恐ろしい、恐ろしい……」
俺は完全にフリーズして、しばらくそこから動けなくなっていた。逃げたいのに、足が動かない。ナニコレ、幽霊?俺、霊感あったんだ?どうしよう、これ、やばいやつ?それとも大丈夫なやつ?混乱して、いっそ話しかけてみようか、とよくわからないアイデアが頭をよぎったときだった。
「いたか!?」
スーツ姿の男が二人、向こうから走ってくる。黒スーツに黒いネクタイをカッチリ締めて、夜なのになぜか黒いサングラスをしている。
「いや、こっちにはいない。反対側を探すぞ」
今度は後ろから声がする。全く同じ格好をした、黒スーツの男が立っていた。
今度はなんだ?ドッキリ?バラエティ番組の収録?それともハリウッド映画?エージェントってやつ?
俺はまったく状況が飲み込めまま、ぼーっと突っ立っていた。スーツの男たちは、まるで俺なんか見えてないみたいに、合流して向こうに走り去っていった。
「……なんなんだ?」
俺は思わずつぶやいた。すると、
「あっ、もしかして……もしかして、どなたかいらっしゃいますか……?」
ガサ、と生垣が揺れて、声の主が突然俺に話しかけてきた。俺はよく考えもせず、返事をしてしまった。
「あ、はい。……あの、もしかして、追われてたりしますか?」
ガサガサ、とまた生垣が揺れる。
「はい、実は、追われているのです。ああ、恐ろしい……」
なんだ、意外と話ができる相手かもしれない。俺はやけに安堵した。少なくとも、悪い幽霊じゃなさそうだ。
「あんたは何者なんですか?」
俺はついに尋ねた。しばらく沈黙があったあと、生垣の向こうからまた声がした。
「……実は、私は、猫のバケモノなのです」
「……猫の?……バケモノ?」
俺はまたあっけにとられた。俺はやっぱり変な世界に迷い込んだのか?就活疲れが溜まっているんだ。きっとそうに違いない。
「はい、猫のバケモノです。実は、私は体の半分が猫なんです」
俺はやけに落ち着いて、すっかり忘れていたコーヒーを一口飲んだ。
体の半分が猫?それは、ケンタウロスとかミノタウロスみたいな、半人半獣みたいなやつなのだろうか。それとも縦半分が猫とか。もしかして、漫画とかテレビで見たみたいな猫耳の美少女?
「どうして半分猫なんですか?それに、一体どういう風に?」
「ええと、……実は、私はこの星の者ではないのです。それで、自分の星から逃げ出してきたときに、罰として猫になってしまう恐ろしい呪いをかけられてしまったのです」
俺はぶんぶんと頭を振った。だめだ、設定が渋滞している。謎の黒スーツに追われていて、半分猫で、宇宙人で、呪いをかけられていて……。
「あの、とりあえず、もうさっきの奴らもどこかに行ったみたいなので、出てきても大丈夫ですよ」
辺りを見回してから、俺はほとんど興味本位でそう言った。いったいどういう風に『半分猫』なのか、どうしても見てみたい。それに、見てみないことには、話が俺の想像力の範疇を越えていて、まるで頭がついていかない。
「いえ、……こんな恐ろしい姿、とてもお見せできません。猫は、私たちの星では、死を運ぶ者として恐れられているのです。なのに、私自身が猫になってしまうなんて、ああ、恐ろしい……」
またガサガサと生垣が揺れる。状況はよくわからないものの、すっかり落ち着きを取り戻した俺は、果たしてこの宇宙人を置いていくべきなのか、何か助けた方がいいのか、迷っていた。それに、一目でいいから宇宙人を見てみたい。宇宙人が猫の恐ろしさに再び口を閉ざす間、俺は手持ち無沙汰にコーヒーを飲むしかなかった。
「……えーと、あんたはこの後どうするの?帰るところは?」
「ありません。星を捨てた上に、猫のバケモノになってしまった私には、……もうこの星で隠れて暮らすしかないのです」
「でも、ずっとこの公園にいるつもり?それこそ、この辺には本物の猫もいっぱいいるよ」
ひっ、と生垣から悲鳴のような声があがった。
「一旦出ておいでよ。それで、あの、……地球でもやっていけそうな感じかアドバイスできるかもしれないし」
「そうですか……。あの、怖がらないでくださいね」
「大丈夫だよ。猫好きだし」
ガサッ、とひと際大きく生垣が揺れた。俺は期待いっぱいで宇宙人が出てくるのを待った。そして、今度こそコーヒーを落とす羽目になってしまった。
生垣の下の方からぐにゅぐにゅと黒いスライムのようなものが漏れ出るように這ってきたかと思うと、何かよくわからない鉱石の粒のようなものが黒い粘膜に絡んでぐちゃぐちゃにくっついたような、およそ地球上では存在しないであろう見た目のカタマリが出てきた。さらに最悪なことに、そこに三毛猫の頭としっぽがくっついている。想像の百倍は猟奇的な見た目に、俺は走って逃げだしたかったが、結局、全身を駆け巡る嫌悪感にまた足が動かなくなってしまい、宇宙人の前に立ち尽くした。そうだよな、猫じゃないもう半分については何も言ってなかったもんな……と、貼り付けたような薄ら笑いを浮かべながら必死に考えた。
「……すみません、驚かせてしまいましたね」
宇宙人はぐにゅぐにゅと形を変えながら言った。
「私たちは、この柔軟性を生かした擬態を得意としているのです。先ほどの追手も、地球人ではなく、擬態した私の仲間たちです。私たちは、擬態を通して言語以上に密接で奥ゆかしい意思疎通をし、常に芸術に寄り添って生きる豊かで平和な文化を築いてきました。それでも、猫にだけは絶対に擬態しません。……なのに、この呪いは、一度かけられてしまうと二度と解けないのです。私はもう二度と擬態することもできず、猫のバケモノであることを受け入れていくしかないのです。仲間たちにそんな恐ろしい姿を見せるわけにはいきません。それで、私は逃げているのです」
ぐにゃり、とひと際大きく歪んで、宇宙人は嗚咽を漏らしはじめた。宝石みたいな綺麗な蒼い目をした猫の頭が、虚ろな表情でぐにゃぐにゃと上へ下へと一緒に動いている。
「私たちは平和に暮らしていただけだったのに……すべては星府の金融政策の失敗によるものです。デフレが進み、産業は間違った価格競争に進んで空洞化が止まらず、暮らしはどんどん貧しくなり、芸術に溢れた豊かな生活は見る影もなくなってしまいました。それで私は、将来に絶望して星を出てきたのです」
宇宙人はさらに激しくぐにゃぐにゃ動いている。猫のしっぽが右へ左へと揺れる。遠くから飼い犬の遠吠えが聞こえる。俺のコーヒーはどんどん地面に染み込んでいく。俺は気になることを聞いてみることにした。
「……その呪いは、最終的にはどうなるの?」
宇宙人はピタリと動きを止めた。最も恐ろしいことを言わなければいけない悲しみに、ぷるぷると小刻みに震えている。
「この呪いは思った以上に強力です。私はもう、……明日の朝には恐ろしい三毛猫の姿になっているでしょう」
「あの」俺はとっさに声をかけた。
「……俺んち、来てもいいよ」
俺はもう、猫缶が買えそうな近所のコンビニのことを考えていた。
おしまい
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