Chapter1. 『悪魔の産声』

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アンジェリーナは歪な笑みを痩せこけた顔に張りつけたまま、ゆらりと一歩前に踏み出してきた。 ヴィンスは低く腰を落とし、いつでもアンジェリーナに飛びかかれるよう、迎撃態勢に入っていたが、ゆっくりと息を吐き出し、身体から余計な力を抜いていく。 「……フローラ」 フローラだけに聞こえる程度の声量で呼びかければ、アンジェリーナを凍り付いたように凝視していた彼女が、ヴィンスに視線を移すのを、横目に捉えた。 「いざとなったら、自分を守ることだけ考えろ。いいな?」 正直、アンジェリーナを相手取るのは、難しいだろう。 彼女がただの女だったならば、身体の動きを封じることくらい、造作もない。 息の根を止めるのも、即座にできる。 でも、アンジェリーナにはフォルスという手強い武器がある。 過去、フローラを相手取り、アンジェリーナに小屋の扉を破壊された今、否応なくあることに気づかされた。 ――フォルスは目視できないことが多い上、気配というものがない。 これでは、さすがのヴィンスも対処しきれない。 ならば、フローラを抱えて今すぐここから飛び出せばいいのかといえば、そうでもない。 背後からフォルスで攻撃されたら、為す術もなく二人とも命を落とす可能性が高くなる。 だから、ヴィンスはフローラだけは確実に助かる方法を選ぶ。 二人ともこの場から脱出し、そのまま逃げおおせる打開策なんて、ヴィンスには思いつかない。 フローラにもフォルスという対抗手段があるが、フォルスを扱えない足手まといを抱えた状況では、彼女に分が悪い。 共倒れになるくらいならば、この命をくれてやる。 そんなヴィンスの考えを、フローラは見抜いてしまったに違いない。 エメラルドグリーンの瞳が愕然と見開かれ、ヴィンスの腕に縋りつく手に一際力が込められていく。 首を横に振り、拒絶の意思表示をしてくる。 大きな目には、みるみるうちに涙が溜まっていく。 「――フローラ」 今にも泣き出しそうなフローラに、微笑みかける。 「ありがとうな」 本当はもっと伝えたい想いがあるような気がするが、咄嗟に口にできたのは感謝の言葉だった。 フローラの目の縁から涙が一粒零れ落ちてきた直後、唐突にヴィンスの身体が見えない力によって壁に叩きつけられた。 本当に気配なんて微塵も感じられなかったものの、咄嗟に受け身を取ることはできた。 それでも、勢いよく壁に激突した衝撃は完全には殺し切れず、態勢を立て直しつつも咳き込む。 天井からは、ぱらぱらと粉塵が舞い落ちてくる。 「ヴィンス!」 先程の、自分を守ることだけ考えろという言葉を、忠実に守ろうとしているみたいで、フローラはヴィンスの名を叫んだものの、その場に留まっている。 今にもベッドから飛び降り、こちらへ駆け寄りたい衝動を押し殺しているのか、握り締めた拳は震え、悔しそうに表情が歪められている。 そして、アンジェリーナへと向き直り、両手を彼女に向かって突き出す。 だが、そんなフローラの必死の努力を嘲笑うかのように、次の瞬間、彼女の小さな身体も壁へと叩きつけられた。 「やめろ!」 咄嗟に口から飛び出してきたヴィンスの制止の言葉は、当然のごとくアンジェリーナには届かない。 追い打ちをかけるかのように、まるで磔にでもするかのごとく、フローラの皮膚を抉るすれすれのところに、水晶の原石みたいな形をしたフォルスが突き刺さっていた。 「へえ……? 貴方、あの女の心配なんてしているの? 自分が助かるためなら、仲間だった人間も殺した、貴方が」 フローラから視線を引き剥がし、声の主を睨み据えれば、アンジェリーナが嘲笑を浮かべ、虫けらでも眺めるような目でヴィンスを見遣っていた。 「傑作ね。人殺しの貴方が、よりによって神の愛娘と呼ばれている女を娶るなんて」 「……ああ、本当にな。自分でも信じられないくらいの、幸運だったと思う」 アンジェリーナの挑発するような物言いに、皮肉めいた笑みを浮かべ、軽口を叩く。 本当はこんなことを口にしている余裕なんて欠片もないのだが、どうにか現状を打開するための時間を稼ぐ。 やはり、アンジェリーナがここに現れた時点で、こうなることは必定だったのだろう。 たとえ即座に逃げ出していたとしても、似たような結果になっていたに違いない。 ただ、この状況ではまだ交渉の余地があるのではないかとも思う。 ヴィンスたちに有利な状況に覆せるとは考えられないが、せめてこのまま二人とも死ぬという結末を回避できないだろうか。 「――アンジェリーナ。気をよくしたところ、悪いが……取引をしないか」 「なあに? 命乞いかしら」 「半分正解で、半分外れだな」 せせら笑うアンジェリーナに笑い返し、言葉を続ける。 「俺のことは、好きにすればいい。あんたに余裕があるなら、実験なり何なりすればいいし、そんな余裕がないなら、殺せばいい。……だが、 あいつだけは見逃してやってくれないか」 「ヴィンス! やめて、そんなこと……!」 「あの女を助けるためだけに、自分の命を差し出すというの?」 アンジェリーナはフローラの悲鳴じみた声は無視し、怪訝そうに眉根を寄せる。 しばしヴィンスの真意を探るように見つめてきた赤い瞳が、ちらりと壁に磔にされているフローラを見遣ったかと思えば、こちらへと視線が戻ってきた。 その直後、アンジェリーナの唇が再度愉悦に歪んだ。
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