Chapter1. 『悪魔の産声』

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「そうね……最後の悪足掻きとしては悪くないわね」 最後の悪足掻きとは、ヴィンスの提案ではなく、それを受け入れるアンジェリーナ自身の行動を指しているのだろうと察せられた。 この様子だと、おそらくアンジェリーナは先が長くない。 余命幾許もないのなら、最後の実験をやるのも悪くないと考えているのだろう。 (死にかけの女の攻撃とは、到底思えなかったがな……) いや、極限状態まで追い詰められたからこその攻撃かと、考えを改める。 アンジェリーナは外套の内側から何かを取り出すと、ヴィンスの元へと歩み寄ってきた。 皮膚が荒れ果てた手には、奇妙な黄金色をしている液体が入った、小瓶が握られている。 「いいわ。その話、乗ってあげる」 フローラが皮膚を傷つけてでも手を動かし、自身の動きを封じるフォルスの杭を破壊しようとした直前、彼女の手に一本のフォルスの杭が 突き刺さった。 フローラの噛み締められた唇からは微かな呻き声が漏れ、彼女の白い手からは鮮血が流れ落ちていく。 「……あいつのことは見逃してくれって、言っただろう」 「あの女が余計な真似をしようとするから、いけないのよ」 ヴィンスの言葉を遮るように、眼前に小瓶を翳された。 「これを飲みなさい。そうしたら、あの女は見逃してあげる」 アンジェリーナから小瓶を受け取り、中身の液体を眺める。 ヴィンスがこれを飲み干したところで、フローラの命が助かる保証はない。 もしかしたら、ヴィンスがこの液体を飲んで死んだ後、約束を反故にしてフローラを殺すかもしれない。 しかし、少しでもフローラが助かる確率を上げるためには、アンジェリーナの要求を呑むしかない。 「ヴィンス……」 涙交じりの声に名を呼ばれ、フローラに目を向ければ、フォルスの杭を手に打ち付けられても泣かなかった彼女が、幼子みたいに顔を歪めて泣きじゃくっていた。 (本当に、馬鹿な女だな……) アンジェリーナから渡された液体を口にしたら、十中八九ヴィンスは命を落とすに違いない。 アンジェリーナは以前、これまでフォルスの実験を行った結果、生き延びた男はいないと言っていた。 あの後、成功例が出たという可能性も皆無ではないが、限りなくゼロに近いだろう。 でも、ヴィンスは躊躇なく小瓶の蓋を外し、口に近づけていく。 「――フローラ。俺は、お前に命をやるんだ。だから、そんな顔をするな」 アンジェリーナのためではなく、フローラのために命を投げ出すのだと宣言し、不気味な黄金色の液体を一気に呷る。 (――夢は、長くは続かないものだな) フローラと再会し、今日に至るまでの日々は、ヴィンスにとって夢みたいなものだった。 他人からすれば、そんなものはありふれた幸せだというのかもしれないが、まともに人間扱いされてこなかったヴィンスにしてみれば、初めて一人の人間として生きられた気がするのだ。 叶うことなら、もっと長くこの夢を見ていたかったが、やはり現実はそう甘くないらしい。 小瓶に入っていた液体を、最後の一滴まで飲み干した瞬間、心臓が妙に大きく拍動した。 胸を突き破らんばかりに心臓が脈打ち、咄嗟に胸元を掴む。 自分の鼓動が耳元で激しく鳴り響く中、霞む視界にフローラの姿を収める。 どうせここで命が尽きるなら、最期には最愛の女の顔を目に焼きつけておきたい。 フローラは相変わらず大粒の涙を流しながら、ヴィンスから一瞬たりとも目を逸らさず、見つめ続けている。 ここで死ぬことに、後悔はない。 だが、願いはある。 もし、フローラがこの場から生き延びることができるとしたら、彼女には幸せに生きて欲しい。 ヴィンスのことを忘れても構わないから、フローラには笑顔でいて欲しい。 しかし、この願いすら叶わないのだとするならば。 男児が深紅の瞳を持って産まれてきただけで、悪魔と見なされる世界が、これからも続くのだとしたら。 フォルスごときに振り回され続けるのが、正しい人間の在り方だというのなら。 ――そんなものは全て、壊れてしまえばいい。 最期に惚れた女の幸せを願うだけではなく、ヴィンスやフローラの人生を狂わせたものの消滅を望むなど、自分らしいと自嘲の笑みを零した刹那、鼓動が一際大きく鳴り、喉の奥から獣のごとき咆哮が上がった。
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