Chapter1. 『悪魔の産声』

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――ヴィンスの唇から獣の咆哮じみた声が零れ落ちてきたかと思えば、彼は床の上に膝から崩れ落ちた。 片手で胸元をきつく握り締めたまま、もう片方の手は縋るものを求めるかのように床を引っ掻いている。 「ヴィンス……!」 咄嗟にヴィンスの名を叫んだものの、フローラの呼び声に彼は反応しない。 ヴィンスの元に駆け寄りたくても、フォルスの杭はびくともしない。 もう一度、自身のフォルスでフローラの手や周囲に突き刺さっている太い杭を破壊しようと、杭が刺さっていない方の手に意識を集中させようとした矢先、急にヴィンスの身体がびくりと大きく痙攣した。 胸元を握り込んでいた手をだらりと下ろし、床を引っ掻いていた手も動きを止めた。 突如としてヴィンスに訪れた変化に戸惑い、集中力が掻き乱された直後、再び彼が吠えた。 その声は、先刻よりもずっと獣のものに近く、驚愕に目を見開く。 でも、暢気に動揺している暇なんてなかった。 ヴィンスの咆哮が小屋の空気を震わせた途端、彼の手の爪が異様なほど長く伸びていく。 それに伴い、ヴィンスの両手足が変形していく。 みしみしと彼の内側から軋むような音が、鳴り響く。 それだけではなく、ヴィンスの両手足は彼の髪の色と同じ漆黒の体毛に覆われていき、とてもではないが、人間と呼べる姿ではなくなっていった。 変貌を遂げたのは両手足に留まらず、全身に及んだ。 瞬く間に狼を巨大化させたかのような姿になったヴィンスの身体は、当然のごとく山小屋の中には到底納まりきらず、彼の頭が天井を突き破り、屋根を破壊した。 すると、途端に激しい雨粒や風と共に、頭上から大きな木片が降り注いでくる。 無事な方の手で結界を展開しようとした寸前、眼前が黒く塗り潰される。 一瞬、結界を張るのが間に合わず、呆気なく死を迎えたのかと思ったが、屋根の残骸が山小屋全体に降り注ぎ、地響きのような揺れを味わったことで、フローラの考えは否定された。 ならば、フローラの目の前を覆っているこの黒いものは何だろうと、今にも麻痺しそうな頭で考えていたら、不意に深紅の瞳がぬっと近づいてきた。 突然の出来事に息を呑み、目前に迫る赤い瞳をじっと見つめていると、気がつけば唇から声が零れ落ちていた。 「ヴィン、ス……?」 目の前の巨躯を誇る漆黒の獣は、フローラの言葉に応じるかのように、低く唸る。 フローラの目の前にいる獣に、ヴィンスの面影なんてないように思われたが、こちらをじっと見つめてくる深紅の眼差しは、紛れもなく彼のものだと信じられる。 「……私のこと、守ってくれたの……?」 フローラの問いに、答えは返ってこない。 だが、代わりにフローラの頬に鼻先を押しつけられた。 意思の疎通が全くできないわけではないのだと悟り、ほっと安堵したのも束の間、この場にはもう一人の人間がいたのだと、慌てて視線を巡らせる。 ヴィンスがアンジェリーナと呼んでいた女性は、おそらく魔女だろう。 もし、アンジェリーナが生き残っていたら、次はどんな手に出るか、分かったものではない。 しかし、捜すまでもなく、彼女と思しき姿はすぐに見つかった。 図らずも、アンジェリーナはヴィンスの巨体によって上から落下してきた瓦礫から守られたみたいだ。 アンジェリーナはその場に座り込んでいるものの、怪我を負った様子はない。 愕然と目を見開いているアンジェリーナを注意深く観察していたら、ふと彼女は引きつった笑みを浮かべた。 そして、小刻みに肩を揺らし始めたかと思えば、狂ったように笑い出した。 アンジェリーナの目の焦点は定まっておらず、正気を失ってしまったのではないかという疑念が、どうしても拭えない。 アンジェリーナの常軌を逸した哄笑に、フローラが呑まれそうになっていると、何の前触れもなく彼女が黒い影にぐしゃりと押し潰された。 すると、あっという間に影の下から血の海が広がっていき、錆に似た臭いが鼻をつく。 黒い影がその場から動こうとしたため、咄嗟に目を逸らす。 もし、影の下にあるものを目にしてしまったら、自分の中の何かが決壊してしまう気がする。 でも、影がフローラのすぐ傍に移動してきたのを横目に捉え、ぎこちない動作でヴィンスを見遣る。 それから、ゆっくりと視線を動かしていけば、ヴィンスの右前足が濡れていることに気がつく。 それに、アンジェリーナから生まれた血だまりから漂ってきた臭いと、似たような臭気を纏っている。 今にも喉がひりつきそうだったから、ごくりと生唾を飲んだ直後、再度周囲が明るく照らされた。 稲光によって浮かび上がったヴィンスの右前足の体毛はやはり濡れており、他の部分よりもさらに暗い色に染まっていた。 ヴィンスがアンジェリーナを踏み潰して殺したのだと、鈍りそうな思考で理解する。 視線に気がついてのろのろと顔を上げれば、ヴィンスの赤い瞳がフローラを見下ろしていた。 ――フローラのことも、アンジェリーナみたいに殺すのだろうか。 そんな考えが脳裏を過った瞬間、胸の奥底から湧き上がってきたのは、死への恐怖ではなかった。 自然と頬が緩み、ヴィンスをしっかりと見つめ返す。 「――ヴィンス。貴方が望むなら、私の命をあげる」 先程、ヴィンスはフローラのために、命を投げ打つことも厭わない賭けに出てくれたのだ。 そこまでしてくれたヴィンスに、命を差し出せと求められ、どうして嫌だと拒むことができるだろう。 ヴィンスの覚悟に、フローラだって応えたい。 ヴィンスになら、この命を奪われても構わないという想いを込めて微笑み、その時を待つ。 だが、いくら待てども、ヴィンスはその深紅の瞳にフローラの姿を捉えたまま、何故かぴくりとも動かない。 沈黙を、嵐のごとき雨と風の音が埋めていく。 やがて、ヴィンスが動きを見せた次の瞬間、どうしてか彼は身を翻し、その場から走り去っていった。 予想だにしていなかったヴィンスの行動に、思考が凍り付きそうになる。 しかし、暴風雨に晒されている状態で、茫然としていられるわけがない。 「ヴィンス!」 アンジェリーナが息絶えたからだろう。 フローラの動きを封じ込めていたフォルスの杭は、いつの間にか跡形もなく消え失せていた。 だから、ヴィンスを追いかけようとしたものの、二足歩行の人間と四足歩行の獣では、足の速さに歴然とした差がある。 フローラが駆け出してすぐに、人間の足では追いつけないほど、ヴィンスの後ろ姿は遠ざかってしまった。 でも、ヴィンスが駆け去っていった方向は、はっきりと覚えている。 獣の姿に成り果てた彼は、山を下っていった。 つまり、人里へと下りていったのだ。 このままヴィンスを放っておいたら、もしかすると、また誰かの命を奪ってしまうかもしれない。 そんなヴィンスを人に仇為す害獣と見なされたら、彼は殺されてしまうかもしれない。 (……行かなきゃ) フローラが行ったところで、どうにもならないだろう。 だが、行かなければならない気がするのだ。 もし、ヴィンスが誰かを殺そうとしているのならば、どうにかして止めたい。 もし、ヴィンスが誰かに殺されるのだとしたら、せめて彼と一緒に死にたい。 それだけの想いを胸に、廃墟と化した山小屋から外套と靴を探り当て、ヴィンスが去った方角に向かって駆け出した。
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