Chapter2. 『願いの代償』

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Chapter2. 『願いの代償』

「……ねえ、起きて。ちょっと、起きてってば」 身体を大きく揺さぶられながら、何度も耳元で呼びかけられる。 そうこうしているうちに、眠りの底に深く沈み込んでいた意識が、緩やかに現実へと浮上していく。 とはいえ、まだまだ眠い。 山の麓で妻と共に暮らしている男は、日々の農作業や畜産業の営み、それから狩猟で疲れていた。 だから、まだ寝ていたかったのに、先程から妻がしきりに起床を促してくる。 仕方がなく、意志の力で瞼を持ち上げれば、部屋の中は暗闇に支配されていた。 眠りに就く前よりも、風雨は勢いを増しているらしく、窓や扉がかたかたと音を立てている。 そのせいか、家畜たちの気が立っているみたいで、やけに騒がしい。 未だ夜が明ける気配さえ見せない時間帯に起こすとは何事かと、眉根を寄せる。 「……何だよ、もう少し寝かせろよ」 欠伸を噛み殺しつつ文句を口にすると、妻は尚も不安そうに表情を曇らせていた。 「なんか、さっきから狼の遠吠えみたいなのが聞こえてくるんだよ。家畜たちも、いつもより落ち着きがないし……。この雨と風だから、外 に出るのも危険でしょ? だから、どうしようかと思って……」 確かに、外は嵐と呼んでも差し支えのないほどの暴風雨なのだと、音ではっきりと伝わってくる。 妻の言う通り、家畜たちも常にないほどの興奮状態に陥っている。 だが、男の耳には狼の遠吠えらしきものは聞こえない。 仮に先刻まで近くに獣がいたとしても、もうどこかに行ってしまったのではないだろうか。 しかし、家畜たちの騒ぎは、さらに大きくなっている。 万が一のことを考え、家畜小屋の様子を見にいった方がいいだろうか。 そう思う反面、この嵐の中、外に出るのは危険だと、今までの経験に基づく知識が、危険を訴えかけてくる。 男はがりがりと頭を掻き、一つ溜息を吐く。 「分かった。嵐が収まったら、俺が外の様子を見てくるから、お前はまだ寝てろ」 男が妻を安心させるように、そう告げた直後、不意に地鳴りみたいな音が聞こえてきた。 しかも、次第に音は大きくなっていき、家も揺れ始める。 (……地震か?) バスカヴィル国では、地震は滅多に発生しない。 だから、家畜たちが常にも増して騒ぎ立てているのかと納得している間にも、音と揺れの激しさが増していく。 妻と一緒にテーブルの下に潜り込むべきかと、ベッドから降りようとした途端、突然何かが家に激突してきた。 その衝撃で、驚くほど呆気なく壁が砕け散り、屋根がどこかに吹き飛ばされていった。 だから、家の中には雨と風が吹き込み、唸り声みたいな音が鼓膜を激しく叩く。 凄まじい風圧に、夫妻はベッドから転げ落ちてしまった。 でも、破壊された壁とは反対側に落ちたおかげで、粉砕された壁の破片から身を守ることができた。 呻きながらものろのろと上体を起こし、顔を上げた瞬間、これまで壁があったところから、家の中を覗き込む巨大な眼球が視界に飛び込んできた。 同時に、隣から妻の小さな悲鳴が聞こえてくる。 (なんだ、これは?) 理解不可能な状況に陥り、男の思考はひどく鈍くなってしまった。 そのためか、妻みたいに恐怖を覚えることはなかったが、身体も動かない。 茫然と目の前の光景を眺めていると、獣の唸り声めいたものが鼓膜に纏わりついてくる。 それが、突如として現れた、謎の巨大な生物の口から発せられたものだと理解するのに、妙に時間がかかった。 すると、かっと一瞬だけ空が明るくなった。 屋根を失ったことで、稲光が鮮明に視界に映る。 だが、はっきりと捉えられたのは雷光だけではなく、謎の生物の全貌もまた、闇の中から浮かび上がった。 その生き物は尋常ではないほどの巨大な体躯を誇る、闇のごとく黒い体毛に覆われた、狼のように見えた。 そして、稲光に照らされた瞳は、 鮮血を彷彿とさせる深紅に染まっており、巨躯と同様の異様さを放つ。 明るみになった獣の姿に、鈍っていた心に恐怖を掻き立ててくる。 ――早く、ここから逃げなければ。 妻を連れて、ここから離れなければ。 頭は今の自分が取るべき行動を導き出したのに、身体は恐怖に支配され、凍り付いてしまったかのごとく、ぴくりとも動かない。 どうにか視線だけでも動かし、横にいる妻を見遣れば、彼女もすっかり腰を抜かしてしまっていた。 それでも、どうにか立ち上がろうとした矢先、獣の吠え声がびりびりと空気を震わせる。 そして、次の瞬間、牙を剥いた獣が男に襲いかかってきた。 獣は男に逃げる隙を一切与えず、気がついた時には肩の皮膚が獣の牙に食い破られていた。 「う……あああああああああああああああ!」 獣に噛まれたのだと、思考が状況に追いついた刹那、ようやく痛みを知覚できた。 患部から牙が引き抜かれると、咄嗟にそこを手で押さえる。 しかし、あまりの激痛に座っていることさえままならず、床の上に倒れ込んでのたうち回る。 隣から、妻の叫び声が聞こえたような気がしたが、自身の苦悶の声が耳障りな上、視界が霞んでいたため、確証は持てなかった。 徐々に、噛まれた部分から感じるのは、痛みよりも熱が勝っていく。 あまりにも強く速く心臓が拍動しているため、息が上がっていく。 頭の中で鐘が打ち鳴らされているかのような、頭痛に襲われる。 (死ぬ……ここで、死ぬのか) 眼前に死がちらついたものの、不思議と恐怖は覚えなかった。 そんなものよりも、全身を苛み始めた激痛と熱で気が狂いそうだ。 今にも意識が吹き飛びそうになる中、男の喉の奥から獣じみた咆哮が迸った。 同時に、すぐ近くから男の絶叫と酷似した音が耳をつんざいた。
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