Chapter2. 『願いの代償』

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――ヴィンスを追って走り始めてから、一体どれほどの時間が経過したのだろう。 フローラは息を弾ませつつも、山を駆け下りていく。 ヴィンスの後ろ姿はとうに見失ってしまったものの、地面にはくっきりと大きな獣の足跡が残っているため、ずっとそれを辿り続けている。 「……あっ!」 雨で素肌に張りついてくる寝間着の裾と、地面のぬかるみに足を取られ、体勢を崩す。 がくんと膝が折れて転んでしまったが、咄嗟に地面に両手をつき、顔面が地面に衝突するのは免れた。 その代わり、両手が地面についた拍子に跳ねた雨の雫と泥が、頬に付着した。 その不快感に思わず表情を歪めたものの、幾度もこうして転んでいるため、フローラの全身は既に雨と泥に塗れている。 だから、今さら拭う気にはなれなかった。 乱れていた呼吸を整え、ゆっくりと身体を起こす。 目を凝らせば、もうすぐ山の麓に辿り着くことが分かった。 (このまま、自分の足で走り続けても、とてもじゃないけど、ヴィンスに追いつけない。馬でも借りないと……) 幸い、山の麓にはフローラたちよりも幾分か年上の夫婦が暮らしている家がある。 そこでは、馬を飼っているから、どうにか拝み倒して借りよう。 その夫妻とは顔見知りで、フローラとは多少の交流があるし、この惨状を目の当たりにしたら、さすがに貸してくれるはずだ。 あともう少しの辛抱だと自分に言い聞かせ、もう一度走り出す。 でも、山の麓に建っている家に近づいていくにつれ、異変に気がつく。 「――え?」 見えてきた建物は、フローラたちが暮らしていた山小屋と同じくらい、ひどい有様だった。 屋根は吹き飛ばされ、壁もほとんどなくなっている。 まるで、ヴィンスが獣の姿へと変貌した時と同じような壊れ方に、すっと顔から血の気が引く。 雨を吸った布地が張りついているせいで、すっかり熱を失った素肌が粟立つ。 前に踏み出す足に一際力を込め、駆ける速度を上げていく。 そして、辿り着いた先にあったのは、フローラたちの住処と同様、廃墟と化した家屋だった。 慎重に辺りを見回していると、ずっと追い続けていたヴィンスの足跡が目に留まる。 ただでさえ早鐘を打っていた心臓が、さらに早く脈打つ。 嫌な予感を覚えながらも、おそるおそる廃墟の中を覗き込めば、やはり中もひどく荒れ果てていた。 家具は散乱し、あちこちに木片が転がっている。 雨に晒されているせいで、床には雨水が溜まりつつあった。 その中にやけに黒い染みを見つけ、まさかと息を呑む。 雨ざらしになっている廃墟の中におずおずと足を踏み入れ、隈なく視線を走らせる。 だが、この家の住人はどこにも見当たらない。 もしかして、この嵐で家が壊れて怪我をしたものの、どうにかここから脱出できたのだろうか。 そんな希望的観測を抱きかけたものの、廃墟の外に出た際、ヴィンスの足跡が視界に入り、現実逃避をするなと己を叱咤する。 (それにしても……) ヴィンスの足跡が向かった先を視線で辿っていくうちに、違和感を覚えて微かに眉間に皺を寄せる。 今まで、ずっと彼の足跡を辿ってきたからこそ、よく分かる。 これは、獣一頭分の足跡ではない。 少なくとも、あと一頭はいるのではないかと推測できるほど、足跡の数が多い。 (どういうこと……?) どうして、獣の数が増えているのか。 ここで一体、何があったというのか。 「……ううん、今は考え込んでる場合じゃない」 あえて声に出して己を奮い立たせ、馬小屋へと足を向ける。 ここに住人がいない以上、申し訳ないが、無断で馬を借りよう。 そこで、また違和感に襲われる。 夫婦が暮らしていた家は、見る影もないくらい破壊されているのに、馬小屋も家畜小屋も、それから物置小屋も、外から見た限りでは無事だったのだ。 試しに、家畜小屋を覗き見てみると、家畜たちは落ち着きを失っていたものの、負傷している子は見当たらない。 目的地である馬小屋も、似たような状況だった。 しかし、やはりいくら考えても答えなんて出ない。 だから、軽く頭を振り、馬小屋の中に入っていく。 そして、この状況下でも平静を失っていない栗毛の馬を見つけ出し、その子をヴィンスの追跡の協力者に選ぶ。 「……よろしくね」 フローラが小声で話しかけ、綺麗に整えられた鬣を優しく撫でれば、栗毛の馬は一つ鼻を鳴らした。 それから、馬具がないか探し回っていると、馬小屋の奥で発見し、急いで相棒に選んだ馬に取りつけていく。 フローラに、乗馬の経験はない。 だから、馬具の装着もこれで合っているのか分からないし、そもそも馬に乗って長距離を移動する自信もない。 でも、人間の足で追いかけ続けるのは、現実的ではない。 フローラの体力は、確実に限界に近づいている。 とはいえ、今のフローラにのんびりと休んでいられる余裕は微塵もない。 手段を選んでいる余裕もまた、欠片もないのだ。 ならば、もうできるかどうかではなく、やるかやらないのかで判断するしかない。 馬具を一通り装着し終えると、柵を開けて手綱を引き、馬小屋の出入り口まで馬を誘導していく。 馬は大人しくフローラについていき、出入り口付近で一旦立ち止まらせると、急いで鎧に足をかけ、ひらりと鞍に乗る。 正直、鞍の上に腰を下ろすまで、緊張のあまり鼓動が必要以上に高鳴っていたのだが、とりあえず馬に乗ることには成功し、ほっと安堵の吐息を漏らす。 だが、即座に意識を切り替え、手綱をしっかり握り、右足で馬の腹を蹴る。 「お願い、走って!」 フローラの声に馬は嘶き声で応え、馬小屋から飛び出す。 フローラが手綱を引っ張って進んで欲しい方向を示せば、それに従って駆けていく。 (すごい……! 自分の足で走ってた時と、全然違う!) 当たり前のことなのに、こうして風を切るように馬に乗って走っていると、自然と気分が高揚していく。 まだ辺りは暗闇に包まれているから、今のフローラには視認できないが、きっと景色も飛ぶように過ぎていっているのだろう。 しかし、状況が状況であるため、そんな浮ついた気持ちは長続きしなかった。 すぐに表情を引き締め、雨で滑りそうになる手で手綱を握り直す。 「――ヴィンス、待ってて……」 決してヴィンスには届かない言葉を口にして、獣の足跡の進行方向を確認しつつ、前へと進んでいった。
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