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「神官様、外の様子をご覧になってください! 獣たちは、この神殿内には入れない模様です!」
「……何だと?」
アイリーンから思いがけない報告を受けた神官は、怪訝そうに眉間に皺を刻む。
こうしている時間もアイリーンにとっては勿体無く感じられ、問答無用で神官の腕を引っ張り、神殿の出入り口まで連れていく。
「あれを、ご覧になってください!」
そこには先程同様、死に物狂いで目に見えぬ壁に向かって突進している、獣たちの姿があった。
特に、漆黒の体毛に覆われた、深紅の瞳に確かな殺意を漲らせた獣が、熱心にそこにあるはずのない障壁に攻撃を仕掛けている。
「あ……悪魔……」
確かに、生まれつき瞳が赤い男児よりも、あの獣の方が余程悪魔めいて見える。
でも、注目して欲しいのはそこではない。
「あの獣たちは、この神殿の中には入れないみたいです。……もしかしたら、私たちのフォルスは効かなくても、イヴ様が遺したフォルスな ら効力を発揮するのかもしれません」
このエメラルドで建造された神殿は、イヴが存命のうちに造られたものだ。
当時、イヴの夫であったバスカヴィル国王が己の権力を誇示するため、妻の力を借りて造らせたのだ。
エメラルドは、宝飾品として加工する時でさえ、細心の注意を払わなければ割れてしまう、非常に繊細な宝石だ。
だから、本来であれば、どれだけ優れた建築技術があったとしても、全てエメラルドでできた建築物なんて、存在するはずがない。
だが、現にこのエメラルドの神殿は、千三百年近くもの間、傷一つつかずに存在し続けている。
それは、どうしてなのか。
答えは簡単だ。
イヴの力を借りたということは、神殿を形成しているエメラルドは、彼女のフォルスによって存在を維持しているのだ
何故なのかは、どれだけ知恵を絞っても分かりそうにないが、どうやらあの獣たちには、今を生きる巫女のフォルスは通用しなくても、古の巫女であるイヴのフォルスならば、話は違うみたいだ。
その上、誰かの意志に操られているわけでもないのに、エメラルドに遺されたイヴのフォルスは、ひとりでに結界を生成したらしい。
というよりも、最早そう信じるしかない。
「だから、どうか神官様! 生き残った人たちを、この神殿に避難させてください!」
獣たちの侵攻が始まってから、既にそれなりの時間が経っているはずだ。
王都に到着するまでの時間を考慮すれば、アイリーンたちが把握している以上の、甚大な被害を受けているに違いない。
しかし、そんな中でも、奇跡的に助かった人たちもいるはずなのだ。
たとえごく僅かだとしても、生き残っている人がいるなら、手を差し伸べたい。
「――私たちはイヴ様の遺志を継いで、楽園を築き上げようと、いつも人々に語りかけている、神殿の人間でしょう? 綺麗ごとをほざくだけで終わらせないためには、今動かなくてどうするんです!?」
正直、アイリーンはイヴの遺志なんて、砂粒ほどにも興味はなかった。
偶然、生まれつきフォルスを持っていただけで、親元から引き離され、神殿で育てられたとはいえ、信仰心は皆無に等しい。
だって、人間は皆、欲が深くて醜いではないか。
神殿で育ったからこそ、人間の本質を垣間見る機会は多かった。
だから、どれだけ望んでも、人間の根本的な部分が変わらない限り、楽園なんてものは築けるはずがないのだ。
フローラが、多くの信者から神の愛娘だと持て囃されているのを目の当たりにし、聞こえよがしに好き勝手に言う巫女を何人も見てきたが、どちらも馬鹿だとしか思えなかった。
たかが小娘が、神の愛娘など大層な存在になれるはずもないし、フローラを悪く言う巫女は、結局信者からの羨望の眼差しを浴びている彼女が、妬ましかっただけだ。
だから、アイリーンはフォルスさえ持っていなければ、巫女になれる資格なんてないような人種だ。
慈愛の心があるわけでも、正義感が強いわけでもない。
でも、いつ死ぬとも知れない事態に陥った今、死にたくないと心の底から思う。
アイリーンがいてもいなくても、世界は当たり前のように回っていくに決まっているし、いなくなったところで誰も困らないだろう。
だが、それでもやはり死を回避できるのならば、回避したい。
そして、そう願っているのはアイリーンだけではないはずだ。
誰もが、死ぬのは嫌に決まっている。
だから、自分と同じ願いを持つ人たちを助けたい。
そのためならば、神官が心動かされそうな言葉くらい、いくらでも並べ立ててやる。
退くものかと目に力を込めて神官をひたと見据えれば、彼は迷うように視線を彷徨わせた後、重々しく頷いた。
「……分かった。とりあえず、筆頭神官殿に進言してみる。もし許可が下りたら、すぐに動けるように、皆で準備をしておいてくれ」
上の指示を仰いでからでなければ動けないのは、組織の欠点だと思う。
しかし、話を通してくれるみたいだし、準備をしておくように指示を出してくるということは、この神官は自分さえ助かればそれでいいと、保身に走るつもりはなさそうだ。
「……了解しました。私の話に耳を傾けてくださり、ありがとうございました」
アイリーンは一礼すると、即座にその場から離れるために駆け出す。
でも、走り出してすぐに背に何者かの視線が突き刺さり、咄嗟に後ろを振り返る。
アイリーンをじっと見つめていたのは、あの深紅の瞳を持つ真っ黒な獣だった。
他の獣も、瞳の色合いが不気味だが、鮮血みたいなあの赤い色は、恐怖心と嫌悪感を掻き立ててくる。
そんな気味の悪い眼差しに殺気が混ざっていれば、背筋にぞっと悪寒が走るのは、至極当然だ。
殺意が滲んだ視線を振り切るように前に向き直り、走る速度を上げようと、踏み出す足に力を込めた。
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