Chapter2. 『願いの代償』

7/17
前へ
/98ページ
次へ
獣の足跡は、進めば進むほど膨大な数に膨れ上がっていく。 おかげで、ヴィンスの痕跡を辿っていくのは容易かったものの、一体どれだけの獣がこの先にいるのかと考えると、ぞっと背筋が冷えた。 嫌な予感を振り払い、ひたすら前進し続けていくと、徐々に王都が見えてきた。 もう二度とここに戻ってくることはないと思っていたのに、 こんなにも早く自ら舞い戻ってくるとは、昨日までのフローラは予想だにしていなかった。 嵐が過ぎ去り、陽が昇ってきたため、王都の惨状がだんだんと否応なく見えてくる。 王都に足を踏み入れれば、そこらじゅうに血の海が広がっていた。 無残に破壊された建物は痛々しく、いつもなら人の往来が絶えない大通りにも、全くと言っていいほど、人の気配が感じられない。 人の姿が全くないというわけではないが、見かけるのはつい目を背けたくなるような遺体ばかりだ。 (城下町の人たちは、どこに行ったのかしら……?) まさか、全員獣の餌食になったわけではないだろう。 だが、地面に刻まれている足跡の数を考えれば、その可能性も完全には捨てきれない。 「――急いで!」 とにかく今は、先を急ごう。 巫女ならば、ここで生き残っている人がいないかどうか捜索し、見つけ次第人命救助に奔走するところだろうが、今のフローラはもう巫女ではない。 それに、たとえまだ巫女を続けていたとしても、愛する男性の元に向かうことを優先したに決まっている。 こんな身勝手極まりない自分が、神の愛娘として、エーヴ教徒から崇敬の念を集めていたのかと思えば、自然と自嘲の笑みが浮かぶ。 馬の走る速度を上げ、無数の獣の足跡を辿っていくと、にわかには信じ難い光景が視界に飛び込んできた。 フローラが長年世話になっていた神殿の門先には、おびただしい数の獣が群がり、その先に進もうと、何度も何度も突進を繰り返している姿があった。 ヴィンスの後を追っている最中、ただの一度も獣と遭遇しないと思っていたら、こんなところに集まっていたのか。 しかし、ああして神殿の敷地内への侵入に成功していないということは、神殿は結界で守られているに違いない。 獣の大群の侵攻があったとはいえ、いくら何でもあまりにも人間を見かけないと思っていたが、もしかしたら神殿に避難した人もいるのかもしれない。 いや、どうかそうであって欲しい。 あまり獣の群れに近づきすぎると、フローラの身も危うくなりかねないため、少し距離を置いたところで、勢いよく手綱を引く。 すると、この状況下でも馬はフローラの指示に従順に応じた。 (ヴィンスは、どこ……?) 神殿の門先に集合している獣の数が尋常ではない上、一頭辺りがとんでもなく大きいため、目を凝らしても全貌がよく分からない。 ここからではどれだけ観察したところで、ヴィンスの姿を見つけ出すのは難しいと判断するなり、フローラは手綱を操って進路を変える。 別の道から神殿へと近づき、そこからヴィンスを捜し出そう。 進行方向を変え、馬を走らせていると、前方に人の姿が見えてきた。 一人は巫女で、二人の幼子を連れて走っている。 どうやら、神殿に王都の住人を避難させているのではないかという、フローラの推測は当たったらしい。 馬で駆けているフローラは、あっという間に三人との距離を縮めていく。 馬の蹄が地を蹴る音に気がついたみたいで、巫女がこちらを振り返ると、ちょうど目が合った。 「……フローラ! あんた、今までどこに行ってたのよ? というか、その格好――」 「――その話は後にして、アイリーン」 フローラはアイリーンたちのすぐ傍で馬を止め、ひらりと地面へと降り立つ。 それから、馬の手綱を強引にアイリーンの手に握らせる。 「その子たちを、神殿に避難させるのよね?」 「え、ええ……。城下町の人たちを、裏門からできるだけ神殿に避難させてるの」 「そう。なら、この馬を使って。馬で移動した方がずっと速いし、安全だもの。そのまま子供を連れていくのは、危険だわ」 「……あんたは、どうするの?」 アイリーンは手綱を握らされた自身の手と、フローラを交互に見遣り、困惑気味に問いかけてくる。 フローラはアイリーンを安心させるように微笑みかけ、軽く肩を竦める。 「自分のことくらい、自分で面倒を見るわ。もし馬が必要になったら、その辺で調達するなり何なり、するわよ」 どうせこの有様では、乗合馬車は機能していないだろう。 そういった馬車に使われる馬を借りることくらい、今の状況では簡単そうだ。 なんてことのないように、さらりと言ってのけてみせたフローラに何を思ったのか、アイリーンは不思議そうにこちらを見つめてくる。でも、すぐにぼんやりとしている場合ではないと考え直したらしく、軽く頭を振ると、真剣な面持ちで頷いた。 「……分かった、この馬は借りていくわ」 フローラもアイリーンに頷き返し、彼女たちとは別の方向へと走っていこうとしたら、不意に呼び止められた。 「フローラ!」 呼び声に導かれるまま振り向けば、複雑そうな面持ちをしたアイリーンが、まっすぐにフローラを見据えていた。 「今まで何をしてたのか知らないし、これから何をするつもりなのかも知らないけど……死ぬんじゃないわよ」 アイリーンの言葉がすぐには呑み込めず、思わずきょとんと目を瞬かせる。 神殿で生活していた頃、彼女とは特段親しくはなかった。 他の巫女みたいに、露骨に悪辣な態度を取られたり、まるでいないもののように扱われることもなかったが、友人と呼べるほどの交流もなかった。 だが、それでもこうして心配してもらえると、素直に嬉しいと思う。 今は状況が状況だから、尚更だ。 フローラは再度アイリーンに笑顔を向け、大きく首を縦に振る。 「――うん。そう簡単に死んだりしないって、約束する」 そう口にはしたものの、フローラが今まさにしようとしていることは、自分自身の命を危険に晒しかねない行為だ。 だから、また会おうとは口が裂けても言えなかった。 これ以上、心の底からフローラの身を案じてくれている人に、嘘を吐きたくない。 アイリーンの返事を聞く前に視線を前方に戻し、獣が群がっている方角に向かって走り出した。
/98ページ

最初のコメントを投稿しよう!

22人が本棚に入れています
本棚に追加