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獣の足跡は、進めば進むほど膨大な数に膨れ上がっていく。
おかげで、ヴィンスの痕跡を辿っていくのは容易かったものの、一体どれだけの獣がこの先にいるのかと考えると、ぞっと背筋が冷えた。
嫌な予感を振り払い、ひたすら前進し続けていくと、徐々に王都が見えてきた。
もう二度とここに戻ってくることはないと思っていたのに、 こんなにも早く自ら舞い戻ってくるとは、昨日までのフローラは予想だにしていなかった。
嵐が過ぎ去り、陽が昇ってきたため、王都の惨状がだんだんと否応なく見えてくる。
王都に足を踏み入れれば、そこらじゅうに血の海が広がっていた。
無残に破壊された建物は痛々しく、いつもなら人の往来が絶えない大通りにも、全くと言っていいほど、人の気配が感じられない。
人の姿が全くないというわけではないが、見かけるのはつい目を背けたくなるような遺体ばかりだ。
(城下町の人たちは、どこに行ったのかしら……?)
まさか、全員獣の餌食になったわけではないだろう。
だが、地面に刻まれている足跡の数を考えれば、その可能性も完全には捨てきれない。
「――急いで!」
とにかく今は、先を急ごう。
巫女ならば、ここで生き残っている人がいないかどうか捜索し、見つけ次第人命救助に奔走するところだろうが、今のフローラはもう巫女ではない。
それに、たとえまだ巫女を続けていたとしても、愛する男性の元に向かうことを優先したに決まっている。
こんな身勝手極まりない自分が、神の愛娘として、エーヴ教徒から崇敬の念を集めていたのかと思えば、自然と自嘲の笑みが浮かぶ。
馬の走る速度を上げ、無数の獣の足跡を辿っていくと、にわかには信じ難い光景が視界に飛び込んできた。
フローラが長年世話になっていた神殿の門先には、おびただしい数の獣が群がり、その先に進もうと、何度も何度も突進を繰り返している姿があった。
ヴィンスの後を追っている最中、ただの一度も獣と遭遇しないと思っていたら、こんなところに集まっていたのか。
しかし、ああして神殿の敷地内への侵入に成功していないということは、神殿は結界で守られているに違いない。
獣の大群の侵攻があったとはいえ、いくら何でもあまりにも人間を見かけないと思っていたが、もしかしたら神殿に避難した人もいるのかもしれない。
いや、どうかそうであって欲しい。
あまり獣の群れに近づきすぎると、フローラの身も危うくなりかねないため、少し距離を置いたところで、勢いよく手綱を引く。
すると、この状況下でも馬はフローラの指示に従順に応じた。
(ヴィンスは、どこ……?)
神殿の門先に集合している獣の数が尋常ではない上、一頭辺りがとんでもなく大きいため、目を凝らしても全貌がよく分からない。
ここからではどれだけ観察したところで、ヴィンスの姿を見つけ出すのは難しいと判断するなり、フローラは手綱を操って進路を変える。
別の道から神殿へと近づき、そこからヴィンスを捜し出そう。
進行方向を変え、馬を走らせていると、前方に人の姿が見えてきた。
一人は巫女で、二人の幼子を連れて走っている。
どうやら、神殿に王都の住人を避難させているのではないかという、フローラの推測は当たったらしい。
馬で駆けているフローラは、あっという間に三人との距離を縮めていく。
馬の蹄が地を蹴る音に気がついたみたいで、巫女がこちらを振り返ると、ちょうど目が合った。
「……フローラ! あんた、今までどこに行ってたのよ? というか、その格好――」
「――その話は後にして、アイリーン」
フローラはアイリーンたちのすぐ傍で馬を止め、ひらりと地面へと降り立つ。
それから、馬の手綱を強引にアイリーンの手に握らせる。
「その子たちを、神殿に避難させるのよね?」
「え、ええ……。城下町の人たちを、裏門からできるだけ神殿に避難させてるの」
「そう。なら、この馬を使って。馬で移動した方がずっと速いし、安全だもの。そのまま子供を連れていくのは、危険だわ」
「……あんたは、どうするの?」
アイリーンは手綱を握らされた自身の手と、フローラを交互に見遣り、困惑気味に問いかけてくる。
フローラはアイリーンを安心させるように微笑みかけ、軽く肩を竦める。
「自分のことくらい、自分で面倒を見るわ。もし馬が必要になったら、その辺で調達するなり何なり、するわよ」
どうせこの有様では、乗合馬車は機能していないだろう。
そういった馬車に使われる馬を借りることくらい、今の状況では簡単そうだ。
なんてことのないように、さらりと言ってのけてみせたフローラに何を思ったのか、アイリーンは不思議そうにこちらを見つめてくる。でも、すぐにぼんやりとしている場合ではないと考え直したらしく、軽く頭を振ると、真剣な面持ちで頷いた。
「……分かった、この馬は借りていくわ」
フローラもアイリーンに頷き返し、彼女たちとは別の方向へと走っていこうとしたら、不意に呼び止められた。
「フローラ!」
呼び声に導かれるまま振り向けば、複雑そうな面持ちをしたアイリーンが、まっすぐにフローラを見据えていた。
「今まで何をしてたのか知らないし、これから何をするつもりなのかも知らないけど……死ぬんじゃないわよ」
アイリーンの言葉がすぐには呑み込めず、思わずきょとんと目を瞬かせる。
神殿で生活していた頃、彼女とは特段親しくはなかった。
他の巫女みたいに、露骨に悪辣な態度を取られたり、まるでいないもののように扱われることもなかったが、友人と呼べるほどの交流もなかった。
だが、それでもこうして心配してもらえると、素直に嬉しいと思う。
今は状況が状況だから、尚更だ。
フローラは再度アイリーンに笑顔を向け、大きく首を縦に振る。
「――うん。そう簡単に死んだりしないって、約束する」
そう口にはしたものの、フローラが今まさにしようとしていることは、自分自身の命を危険に晒しかねない行為だ。
だから、また会おうとは口が裂けても言えなかった。
これ以上、心の底からフローラの身を案じてくれている人に、嘘を吐きたくない。
アイリーンの返事を聞く前に視線を前方に戻し、獣が群がっている方角に向かって走り出した。
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