Chapter1. 『悪魔の産声』

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ヴィンスと一緒に神殿から逃げ出してから、もう半年近くが経とうとしていた。 今では、バスカヴィル国南部の山奥に居を構え、慎ましく暮らしている。 山奥ならば、滅多に人目につかないし、狩猟で新鮮な肉が手に入るし、木の実や野草の採集もできるため、フローラたちにとっては楽園みたいな場所だったからだ。 ヴィンスに連れてこられた先に、無人の山小屋があったのも、幸いした。 もちろん、いいこと尽くしというわけにはいかない。 山の天気は移ろいやすいから、狩りや採集がままならなくなる時もあるし、山の恵みだけでは人間の生活は成り立たない。 人里に下りなければ、入手できない生活物資もあるため、必要に応じて山を降りなければならないのだ。 おまけに、フローラは神殿の外で生活するのは、幼少時以来だったから、ヴィンスと隠遁生活を始めたばかりの頃は、毎日のように彼の手を煩わせてしまった。 何度ヴィンスに呆れられ、世間知らずと嫌味を言われたか知れない。 だが、ヴィンスはぶつくさと文句を言いながらも、根気強くフローラに生活の知恵を教えてくれた。 生活物資の調達のため、フローラが下山する時は、見送りも出迎えもしてくれた。 本当は、ヴィンスが一人で人里に下り、街で生活物資の補給をしたかったみたいだが、彼の赤い瞳はどうしても目立つ。 昼間の神殿内を歩き回っていた時みたいに、包帯で目元を覆うという方法もあるが、盲目の人間が一人で買い出しにいく姿は、異様としか言いようがない。 仮に、フローラが付き添ったとしても、何回も同じ手を使っていたら、不審がられてしまうかもしれない。 外套のフードで目元を隠すという案もあったのだが、昔、注意していたにも関わらず、些細なきっかけで深紅の瞳が露見した出来事があったと聞かされ、断念したのだ。 そこで、ヴィンスと幾度も話し合いを重ね、最初の一回だけは目元を包帯で隠した彼に付き添ってもらい、フローラが人里での生活物資の購入を担当することになったのだ。 フローラの銀髪も目立つものの、女性の銀髪は吉兆の証とされているから、見られたとしても悪感情は抱かれない。 とはいえ、追っ手をかけられている可能性を考えると、あまり楽観視できないため、思い切って髪を肩の上で切り、外套のフードですっぽりと頭を覆うようにしたのだ。 染め粉で髪を別の色に染めようかとも思ったのだが、ヴィンス曰く、髪を染める行為は危険且つ難しいのだという。 そんな危険を冒してまで髪を染めようとは思わなかったから、断髪に至ったというわけだ。 しかし、彼はこれにも難色を示した。 なにも、そこまですることはないと、何度も言い聞かせられた。 一般的に、髪が長い女性は美しく、髪が短い女性は醜いという風習が西大陸には根付いている。 もちろん、バスカヴィル国も例外ではない。 だから、フローラが奇異の目に晒されるのではないかと、きっと気遣ってくれたのだろう。 でも、ヴィンスが今まで味わってきた辛酸を考えれば、このくらいどうってことはなかった。 彼が見ず知らずの誰かに傷つけられるくらいならば、自分が傷ついた方がマシだ。 だから、ヴィンスの制止の言葉を振り切り、自分の手で髪を切り捨てた。 そして、髪が短くなった自分は醜い女に見えるかと彼に問いかければ、馬鹿ではないのかと吐き捨てられた。 「髪が短くなった程度で、そんなに変わるわけないだろう」 言外に、醜くなんてないと告げられ、フローラがどれだけ嬉しかったか、ヴィンスは知っているのだろうか。 「なら、何も気にすることなんてないじゃない」 フローラがにっこりと微笑んでそう言い切れば、ヴィンスもそれ以上は何も言わなかった。 それに、髪を短くした利点は、髪色を隠すこと以外にもあったではないかと、切ってから気づかされたのだ。 山での生活では、これまでみたいに髪の手入れが行き届かない。 だが、短くなれば、その分髪全体に栄養が行き渡りやすくなる上、手入れが格段に楽になったのだ。 思わぬ利点に喜んでいたら、ヴィンスに呆れられてしまったものの、それ以降彼が気に病む素振りを見せなくなったのだから、一石二鳥どころの話ではない。 そういうわけで、初回だけヴィンスにあれこれと教えてもらい、その後はフローラが一人で下山し、生活物資の補給を行うことになった。 最初の頃は、失敗をしてしまったこともあったが、今ではすっかり慣れてきたと思う。 そして、変化し、順応を求められたのは、フローラを取り巻く環境だけではなく、ヴィンスとの関係も含まれていた。
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