Chapter1. 『悪魔の産声』

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「――夫婦だと、思っていたんだが」 薪を取りに外へと出ていたヴィンスが戻ってきてから、ホットワインを手に席につき、つい先刻浮上した疑問をそのまま口にしたら、彼は怪訝そうに眉根を寄せて答えた。 「――え?」 予想外の返答に、間の抜けた音が自分の唇から零れ落ちたのだと理解するのに、やたらと時間がかかってしまった。 驚きのあまり、口を半開きにしたままヴィンスを凝視していたら、彼は木製のマグに注がれたワインを口に含みつつ、呆れの色が浮かんだ眼差しを向けてきた。 「……むしろ、お前は俺のことを何だと思っていたんだ?」 マグの縁から口を離したヴィンスに、質問の矛先を向けられ、慌てて居住まいを正す。 「え、えっと……恋人、かなって……」 共犯者という言葉が思い浮かんだとは、口が裂けても言えない。 思っている分には問題はないだろうが、いざ口に出したら、言葉の持つ意味とは裏腹に、やけに甘ったるく感じられそうだ。 だから、先程真っ先に思いついた、男女の仲を表す言葉を口にすれば、何故かヴィンスがにやりと唇を笑みの形に歪めた。 「へえ……? お前は恋人相手に、命をくれてやるだとか、その命をくれとか言うのか?」 「そ、それは……!」 確かに言ったが、なにもここで蒸し返さなくてもいいではないか。 かつてフローラが口にした言葉を再現してみせたヴィンスに、慌てて反論しようとする。 しかし、フローラが言葉を継ぐよりも早く、ヴィンスは再度口を開いた。 「お前が、夫でもない男と関係を持つわけないだろう」 「ヴィ、ヴィンスが相手なら、その限りじゃないもの……!」 咄嗟に口から飛び出してきた反論に、ヴィンスが軽く目を見張る。 我ながら、何を口走っているのかと、羞恥に泣き出したくなってきたものの、今さら引っ込みがつかない。 「ヴィンスになら、何をされてもいいって、思ってるもの」 頬どころか耳までじわじわと熱くなり、気恥ずかしさに俯く。 もう季節は秋だというのに、全身が火照ってきた気がする。 「えっと……だから、その……そういう理由で、夫婦じゃないって思ってたわけじゃなくて、私たち、結婚式も挙げてないし、ヴィンスから 指輪ももらってないし、プロポーズだってされてないから、ヴィンスにそういう相手だって思われてないんだろうなって……」 しどろもどろになりながらも、何とか言葉を続けると、彼が溜息を零す音を耳が拾う。 「……確かにお前、俺相手だと、そこまで身持ちが固いってわけじゃなかったな」 はしたない女だと軽蔑されてしまったかと、身を固くしていたら、低くて心地よい声が言葉を繋ぐ。 「――だが、まあ……相手が俺限定だっていうなら、悪い気はしないな」 続けられた言葉に、おそるおそる顔を上げれば、ヴィンスが面白がるようにフローラを眺めていた。 「それに、俺は生半可な気持ちで、欲しいものを奪ったりしないぞ」 フローラを神殿から攫い出し、ここまで連れてきて生活を営むのに、ヴィンスは相応の覚悟を決めたのだと理解した瞬間、ただでさえ高まっていた身体の熱が、さらに上昇していく。 「確かに、式も指輪もなかったが、俺はお前にプロポーズされたとばっかり思っていた」 「え?」 続けざまに思いも寄らなかった発言を受け、そろそろ頭の中が混乱してきそうだ。 「だから、さっきの命をくれとか、くれてやるとかいうやつ」 ヴィンスはあれを、フローラからのプロポーズだと受け取っていたのか。 確かに、捉えようによってはプロポーズに聞こえるのかもしれないが、結婚の約束を取り付ける言葉とは、もっと甘くて美しいものではなかっただろうか。 「なかなか情熱的で、俺は気に入ったぞ」 「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、私が思ってたのと、ちょっと違う……」 「それはそうだろうな」 フローラが茫然と零した言葉に首肯したヴィンスは、もう一度マグに唇を寄せてホットワインを飲む。 その様子を眺めつつ、ヴィンスの言葉を胸の内で反芻する。 (そっか……ヴィンスは私のこと、妻だと思ってくれてたのね……) その言葉を噛み締めれば噛み締めるほど、胸に幸福感が押し寄せてくる。 熱くてたまらない頬は緩み、自然と笑顔になる。 「じゃあ……私とヴィンスは、夫婦ってことでいいの?」 「いいんじゃないか」 マグの縁から口を離したヴィンスから返ってきた答えは、実に素っ気ないものだったが、不思議と不満は込み上げてこなかった。 むしろ、彼らしいとさえ思う。 「まあ、だが……お前がどうしてもっていうなら、式も指輪も考えてはみるが……」 「あ、別にどっちもいいわよ」 歯切れ悪く切り出したヴィンスに、あっけらかんとした口調でいらないと告げれば、先刻にも増して彼は驚いたみたいだ。 「……いいのか?」 「だって、式をするにも、指輪を用意するにも、お金がかかるじゃない」 今のフローラたちに、そんな金銭的な余裕は微塵もない。 毎日食べていくのに精一杯だというのに、結婚のための支度金を用意できると信じられるほど、フローラは楽観的に現状を捉えていない。 「それに、式を挙げたところで、見にくる人もいないんだから、非生産的だわ。指輪も、家事をするのに正直邪魔だし……」 水仕事なんてしていたら、貴金属はあっという間に錆びてしまう。 たとえヴィンスからもらったとしても、大切に仕舞い込んでおくだけで終わるだろう。 「それだったら、食べ物を長く保管するための調味料とか、普段着るような服を買った方が、ずっと建設的よ」 フローラの今のところの夢は、高級品である砂糖や蜂蜜を買うことだ。 やはり、味付けを変えるにしても、いつも同じような調味料を使っていたら、限度というものがある。毎日食事ができるだけ、ありがたいとは思うものの、人間という生き物は欲深く、どうせならもっと色々なものを食べてみたい。 それに、蜂蜜は薬代わりにもなる上、蜂蜜酒も作れる。そうしたら、ヴィンスも喜ぶのではないか。 衣類も、二人とも必要最低限の数しか持っていない。 それも、時々フローラが繕いながら着ているのだ。 冬に備え、そろそろ新調したいところだ。 だから、できれば資金はそちらに回したい。 別に遠慮しているわけではないのだと、にっこりと微笑んでそう説明したら、どうしてかヴィンスは遠い目をした。 「……お前、神殿で神の愛娘とか呼ばれていなかったか」 「呼ばれてたわね」 そんなこともあったと、それほど昔のことでもないのに、不思議と懐かしい気持ちになる。 フローラも遠い目になりかけたところで、急にヴィンスがふっと笑みを零した。 「……やっぱりお前は、多少変わってるところはあるが、ただの女だ」 いつの間にか降りしきる雨は勢いを増し、雨粒が屋根に当たっては跳ねていく音が、先程よりも激しくなっていた。 きっと、外の気温はぐっと下がっているに違いない。 でも、ヴィンスの言葉を耳にしたフローラは、身も心も温かなものに包まれているような心地がした。
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