Chapter1. 『悪魔の産声』

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その日の晩。 ふと目が覚めたヴィンスは、ゆっくりとベッドから上体を起こす。 そして、慎重に周囲に視線を巡らせる。 普段と何かが違う気がして、意識が覚醒したものだとばかり思っていたが、昼間よりもまた一段と激しさを増した雨音と、風が唸る音以外、いつもと異なるものは見受けられない。 隣では、フローラがすやすやと寝息を立てている。 (……気のせいか?) だが、長年磨き続けてきたヴィンスの勘は、そうそう外れないことを、他でもない自分自身が経験上知っている。 念のため、ベッドの下に手を潜り込ませ、そこに置いてある護身用のナイフを掴み取る。 万が一、フローラが触れて怪我をしないようにと、 刃を納めていた鞘から抜き放つ。 その直後、雨風の音に紛れ、誰かの覚束ない足音が聞こえてきたかと思ったら、がたがたと山小屋の扉が軋む。 おそらく、何者かが扉の取っ手を押したり引いたりしているのだろう。 しかし、施錠しているため、扉が開かないことを悟ったらしく、次いでどんどんと激しく扉を叩かれた。 その音で、フローラの意識も現実へと無理矢理引き上げられたらしく、勢いよく飛び起きた。 扉を見据えたまま横目にフローラを見遣れば、彼女は忙しなく瞬きを繰り返した後、不安そうに表情を曇らせ、ヴィンスを見上げてきた。 咄嗟にフローラを左腕で庇い、右手でナイフを構え直す。 (組織の人間か? それとも、神殿の関係者か?) 以前、一度だけフローラと共に山を下りた際、彼女が赤い瞳を持つ男に誘拐されたという噂を耳にした。 フローラ曰く、今もその噂は流れ続けているみたいだが、その後の進展は特になさそうだったという。 扉を壊さんばかりに叩く音が小屋中に鳴り響く中、不意にぴたりと音が止まった。 不気味な沈黙が訪れると、雨音と風の音が妙に耳につく。 もしかすると、旅人が一夜の宿を求めた末、この小屋に辿り着いたのかもしれない。 それで、一縷の望みに縋り、扉を叩いてみたものの、返事がなかったから、諦めたのではないか。 頭ではそんなはずはないと思っていたが、一瞬だけ楽観的な可能性が脳裏を掠めていく。 でも、やはりヴィンスの予想通り、それで終わるわけがなかった。 何か強大な力が扉に衝突したかと思えば、扉が内側に吹き飛んできた。 扉が吹き飛ばされた刹那、激しい雨と風が部屋の中に吹き込んでくる。 ちょうど扉があった場所には、一人分の人影が立っていた。 夜目が利くヴィンスは、その人影が女性のものであると見抜く。 だが、すっぽりと全身を外套で覆い、フードを被っているため、誰なのかまでは分からない。 突然の来訪者は、何故かすぐには動かない。 その場で、じっと立ち尽くしている。 相手の意図を掴みかね、眉間に皺を寄せた直後、扉を失ったせいで、暗い雲に稲光が走るのが見えた。 その光により、女性の姿が闇の中から浮かび上がる。 フードの隙間から覗く、艶を失って乱れたストロベリーブロンドと、ヴィンスと同じ深紅の瞳には、嫌というほど見覚えがあった。 外套に身を包んだ女――アンジェリーナは愕然と目を見開いていたものの、やがてがさがさに荒れ果て、出血までしている唇に、にいっと弧を描いた。 頬がこけて目が落ち窪んだ、骸骨みたいな姿に成り果てた女が、肩を小刻みに震わせて笑う様は、フローラの恐怖心を掻き立てるのに充分だったのだろう。 フローラの手が、ヴィンスの左腕をぎゅっと掴んできた。 どうやら近くに雷が落ちたようで、大きな轟音が鼓膜を貫く。 爛々と異様な光を宿らせた赤い瞳は、ヴィンスとフローラの二人の姿を捉え続けていた。
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