Chapter1. 『悪魔の産声』

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――懐かしい夢を見た。 十年くらいは昔の夢を見ていたアンジェリーナは、ゆっくりと瞼を持ち上げていく。 余程疲労が溜まっていたのか、目を閉じただけで眠ってしまったらしい。 辺りを見渡せば、いつの間にか闇が濃くなっていた。 夜の森は危険だ。 いくらアンジェリーナにはフォルスがあるとはいえ、意識がない状態で野の獣に襲われたら、助かる見込みは少ない。 どこか身を休める場所はないかと、辺りに視線を彷徨わせていたら、先刻までは気がつかなかったが、暗闇に慣れた目が、遠くにある一軒の山小屋を捉えた。 まるで、神によってもたらされた恵みのごとき光景に、ごくりと唾を飲み込む。 (あそこで、一晩明かせないかしら……) こんな山奥にある山小屋なのだ。 もしかしたら、無人の廃屋かもしれない。 仮に誰かが住んでいたとしても、山で生計を立てている、世捨て人である可能性が高い。 だとすると、魔女狩りのことを知らないかもしれない。 もし知っていたとしても、アンジェリーナと魔女を結び付けて考えないのではないか。 そんな希望が、胸の奥底に微かに芽生えていく。 ふらつきつつも立ち上がり、吸い寄せられるように山小屋へと向かって足を進めていく。 全身を容赦なく叩く雨粒が鬱陶しかったものの、あそこに辿り着くまでの辛抱だと思えば、それほど苦にならない。 ようやく山小屋に近づいてくると、薪置き場に積まれている薪が目に留まり、ここに人が住んでいる可能性が高まってきた。 試しに、窓から小屋の中の様子を窺おうとしたのだが、案の定、閉じられた木戸により、中の様子は分からない。 諦めて山小屋の出入り口に足を向け、扉の取っ手を掴んで開けようとしたものの、鍵がかかっているみたいで、扉の軋む音だけが耳朶を打つ。 (やっぱり、誰か住んでいるみたいね……) ここの住人が、俗世間と距離を置いている、純朴な人間であることを願いながら、取っ手から手を放し、拳を作って扉を叩く。 夜だから、この小屋の主はとっくに眠っているだろう。 だから、寝ている人間の耳にも届くよう、思いきり扉を叩く。 だが、いくらアンジェリーナが扉を叩き、来訪者の存在を伝えても、住人が起きてくる気配はない。 いくら深い眠りに就いていたとしても、 これだけ大きな物音が聞こえてきたら、さすがに目を覚ますものではないのか。 いつまでも沈黙を続ける扉を叩く手を止め、微かに眉間に皺を刻む。 (もしかして、誰も住んでない……?) 山小屋のすぐ近くにある薪置き場には薪が積んであったし、窓や扉が閉ざされているから、てっきり誰かがここで暮らしているものだとば かり思っていた。 しかし、もしかするとここは無人の廃屋なのかもしれない。 薪置き場に薪が置いてあるのは、つい最近までここに住んでいたものの、何らかの理由でここを離れることになり、そのままにしていったという可能性もあるのではないか。 でも、そうだとしたら、戸締りをしていった理由が分からない。 扉の取っ手を眺めつつ、思考を巡らせていたら、不意に食糧を取りにさらに山の奥へと入っていった結果、帰らぬ人になったのではないかという可能性が、脳裏に浮上してきた。 だとすれば、しっかりと戸締りがしてあるのにも、納得がいく。 ならば、この扉を壊してでも小屋の中に入ったとしても、誰も咎める人間はいないだろう。 そう判断したアンジェリーナは両手を前に突き出し、手のひらにフォルスを集中させていく。 そして、深く息を吸い込んで吐き出すのと同時に、結界を応用させて扉に叩きつける。 すると、扉は呆気なく山小屋の内側に吹き飛び、凄まじい音を立てて床に倒れ込んだ。 無人だと思って扉を破壊した先には、驚いたことに人の気配がした。 だが、屋内も闇に包まれているため、目を凝らしてもよく見えない。 ただ、この山小屋の住人は二人の男女だとは、何となく気配で分かった。 夜中にいきなり扉を壊された住人たちから、それぞれ怯えと警戒の眼差しを向けられていることが、視界が利かないアンジェリーナにも、はっきりと伝わってきた。 そこで、ようやく二人が扉を開けようとしなかった理由が、頭の中に浮かんできた。 彼らは、扉を叩く音に気がつかなくて目覚めなかったのではなく、真夜中の来訪者の正体が魔女なのではないかと、警戒して出てこなかっただけではないのか。 そこまで思い至った途端、さっと顔から血の気が引く。 ここで弁明したところで、今さら二人の警戒心を解くことなんてできないと理解しながらも、声を絞り出そうとした寸前、突然周囲が明るくなった。 ほんの数秒ほどの出来事だったものの、アンジェリーナの目には山小屋の住 人たちの姿が鮮明に映った。 一人は、約半年ほど前に取り逃がした、フォルスの実験の被験体にするはずだった男だ。 アンジェリーナと同色の瞳を、見間違うはずがない。 確か、名をヴィンスといったか。 ヴィンスはもう一人の住人を庇うように、ナイフを構えていた。 そして、もう一人は、神の愛娘と呼ばれ、エーヴ教の信者たちから絶大な求心力を集めていたにも関わらず、やはり約半年ほど前に行方を眩ませた、フローラだろう。 髪は肩の上で切ってあるものの、白銀の髪とエメラルドグリーンの瞳の両方を持ち合わせている女は、そうそういないはずだ。 フローラはヴィンスの左腕にしがみつき、どこにでもいる娘みたいに自分を守ってくれる男に縋っていた。 自分が目にしたものを理解したアンジェリーナの唇は、自然と笑みの形に歪んでいく。 一度弾けた失笑は止まらず、肩まで震え出す始末だ。 ――アンジェリーナは、イヴの理想を叶えるため、誇りも意志も捨てず、その生き様を貫いたというのに、魔女と蔑まれ、追われ、死を望まれた。 それなのに、魔女よりも余程罪深い男は、アンジェリーナの誘いの手を払い除けたどころか、その罪を裁かれることなく、どこにでもいる男みたいに女を娶り、ここで平穏な日々を送っていたのか。 神の愛娘だとか呼ばれているが、周りからいいように利用されていただけの女は、イヴの遺志など知らず、ここでのうのうと罪人の妻として生きていたというのか。 いや、この様子だと、伴侶が罪人だということを、知っているかどうかも怪しい。 なんて、滑稽なのだろう。 今までアンジェリーナが耐え忍んできた、屈辱も、苦痛も、恐怖も、一体何だったというのか。 急に全てが馬鹿馬鹿しく感じられ、最早笑うしかなかった。 しかし、ここでヴィンスと再会を果たし、フローラと出会ったのも、きっと運命だろう。 闇に慣れた目に、二人の姿を捉えたまま、胸の内で呟く。 その直後、地を揺るがすような雷鳴が轟いた。 (だったら――) ――二人を、道連れにしてやる。
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