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 父に去られた母が絶望する姿をそばで見ていた湊は、再婚しようかと思っていると母に打ち明けられたとき、その背中を押した。  今にして思えば、それはまだ小学生だった湊の、そして二人の今後の生活のためでもあったのだろう。新しい恋をしているという風には見えなかったと思う。  家にやってきた北街は、母の勤めている会社の取引先の社員で、真面目で優しそうな人だった。  自分のせいで母が嫌われてはいけないからいい子にしていなくてはと、子供心に努力をしていた気がする。  過干渉なほどに可愛がってくれる義父を、最初のうちは嬉しく思っていた。  湊が物心つくころには実父はあまり家に寄りつかなくなっていたし、母は優しいがやはり父のことが優先だったので、大人からそんなに構ってもらえた事はなかったのだ。  ただ、どうしても気後れしてしまうのが、風呂に一緒に入ろうと言われることだった。  北街が義父になった頃には、湊は既に小学生でも高学年。小さい子のように体を洗ったりされることには抵抗がある。  それでも親子のコミュニケーションがしたい、親子ならばこれくらいは当然、と言われてしまえば逆らえず、その身を預けるしかなかった。  事件が起きたのは、湊が中学二年生の時だ。  その年のいつ頃で、前後にどんなことがあったかはあまりよく覚えていない。    場所は今転がっているところと同じ、リビングだった。  流石に中学に上がる頃には義父の執着を少し気味悪く感じていたが、母の再婚に水を差したくなくてあからさまに避けるようなことはできずにいた。  母の帰りが遅かった日、夕食を二人で食べた後のことだ。風呂に誘われて、先に勉強をしたいから後で入るとやんわり断ったら、最近冷たいとなじられた。  休日に家にいるのが気詰まりで友達と遊んでくると言って出て行ったのを、まさか好きな相手ができたのかと勘繰られ、押し倒されて服を脱がされて。 『湊、お前がいけないんだよ。お前がそんな顔をしてお義父さんを誘うから』  何より恐ろしかったのは、信頼できるはずの大人の豹変だ。こちらを向いていても合わない視線。噛み合わない会話。支配欲と嗜虐心にとりつかれ、湊が同じ人間であるということも忘れてしまったかのような振る舞い。  母が本当に偶々予定より早く帰って来なかったら、誰に相談することもできずその日からずっと虐待され続けたかもしれないと思うとゾッとする。  帰宅した彼女の見たものは、裸の息子を組み敷く己の夫であった。  言葉をなくす母に、義父は「湊が誘ってきたから、もうこんなことはしないように指導をしていた」とわけのわからない言い訳した。  その後暫くのことはあまり記憶にないので、二人が離婚するまでの間にどんなやりとりがあったのかはよくわからない。  周りの人たちに聞いたところ、湊は普通に生活していたそうだが、覚えていないというのは、受け入れ難い現実を前にして、心を守るための防衛機制が働いたのかもしれない。  途切れた線が繋がったのは、三年になって、受験の話をするようになったあたりだ。  母は、その頃には湊の方を見なくなっていた。  義父の言葉を信じたのか、湊も「本当に自分のせいでこんなことになったのかもしれない」と早々に母との関係を諦めてしまった。  お前が誘った、お前が悪いんだ、と、湊に性的な欲望を抱くものはみんなそう言う。  誘ったことなど一度もないけれど、自分のことは自分ではわからないというし、そうなのかもしれない。  本当にそうだとしたら、自分のせいで母と義父の関係は壊れてしまったことになる。  一体どんな風に償えばいいのかもわからなくて、断罪されないのをいいことに母親の存在ごと蓋をした。  だが、罪からは逃れられないということなのか。
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