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 夕方、疲れた顔に見えていないだろうかと気にしながら出勤した。  朝から、しかも事務所で激しい行為に溺れた代償は、些少かもしれないが支払うことになった。  睡眠を取って、入浴して、一応できる限りのスキンケアはしてきたが、瞼が腫れている気がする。  顔のコンディションが悪いときは、出来ることならオーナーとは会わずに済ませたい。  ギリギリの時間に出たので、フロアに着くとすぐにミーティングが始まり、スタッフが集まる。  店長である桃悟が軽く共有事項を伝えると、副店長の望月が「桃悟、いいか?」と手を挙げた。 「今日はみんなに話がある」  桃悟に発言を許された望月は、改まってそう宣言した。  その真剣な表情に、スタッフ一同は居住まいを正す。  望月はぐっと拳を握り、息を吸い込むと口を開いた。 「たまにはみんなで飲みに行きたい!」  力一杯の飲み会宣言。  隣の桃悟が溜息をつくのが見える。 「満月(みづき)さんは眠兎が寿退社しそうだから、その前に思い出作りをしておきたいんですよね?」  湊の横に並んでいた榛葉がやれやれと肩を竦めると、望月はきっと眦を釣り上げた。  『満月』は望月の源氏名だ。読みは本名と同じなのでもしかしたら『望月』と言っているのかもしれないが、榛葉はスタッフを常に源氏名で呼ぶから、望月のことも多分満月と脳内変換されているのではないだろうか。 「違う!湊はいなくなったりなどしない!」  『満月』こと望月にカッと視線を向けられ、なあ?と同意を求められる。大きな瞳は目力があり、思わずホールドアップしてしまう。  いきなり自分の話になったことに驚きつつも、苦笑しながら首を振った。 「そ、そうですね、今のところ、具体的な予定は」  行き来することで毎日誰かしらに送迎させてしまっているのを、心苦しく思ってはいる。  竜次郎も、『SILENT BLUE』に勤めていることをあまり快くは思っていないようだし、いつか、とは思っていた。  だが、湊は自分の心が竜次郎に傾く一方なのが恐ろしい。  いつか『どこにも行かないで、ずっと一緒にいて欲しい』という欲望を抑えきれなくなるのではないかと思うと、こうして離れている時間はお互いのために必要な気がする。  その辺りのことを考えていると、胸が嫌な感じにざわついて、結局いつも結論を出すのをやめてしまうのだ。  この気持ちが払拭できるものなのか、それとも抱えながら生きていくものなのか、湊にはまだよくわからなかった。 「満月さん、パワハラですよ今の」 「えっ嘘」  望月の焦った声に、榛葉が更に畳み掛ける。 「仕事を続けることを恫喝して強要するとか最低の上司ですね」 「いや、別にまだそういう話はしたことないよな?っていうただの確認だから!」 「スタッフの幸せを素直に祈れないんですか?」 「俺だって湊の幸せを祈ってるけどまだ早いだろ!湊がお嫁に行くのは一輝がお嫁に行ってから!」 「可能性すらないじゃないですか」  榛葉は忌々しげな溜め息を吐いて、結局仕事辞めさせる気のないブラック上司じゃないですか、一輝が嫁とかキモ。と毒を吐く。  流石は『SILENT BLUE』随一の暗黒キャラだ。和風のすっきりした顔立ちの美男子なのに、副店長にも容赦なしである。  「ひでーな、まあ俺も今のところ嫁に行く気はないけど」と鹿島が笑い、スタッフにも笑いが弾けた。  飲み会にはどのスタッフも肯定的で、定休日の前日を休みにする許可を望月がこれから月華に取る、ということで和やかなミーテイングを終えた。 「眠兎」  解散すると、榛葉に声をかけられた。 「榛葉さん、何ですか?」  榛葉は湊と同じ『SILENT BLUE』のオープニングスタッフで入社は同時だが、年上なので敬語で話している。 「さっきの、ただの軽口だから気にしないで」 「さっきの?」  何か言われただろうかと首を傾げると、榛葉は「違ったかな」と同じように首を傾げた。 「何かちょっと表情翳ったから、仕事の前にテンション下げるようなこと言っちゃったかなって」  もしかして、今後の竜次郎とのことを考えたときに表情に不安な気持ちが出てしまっていたのだろうか。  榛葉は毒舌で辛辣な物言いもするが、相手がそれを望んでいない限り、本当に言われたくないことを言ったりはしない。  心の機微にとても聡い人なのだと湊は認識していた。 「すみません、店とは関係のないことを少し考えてしまっただけで、榛葉さんや副店長に対して何か思ったわけじゃないです」 「それならよかったけど。いや、まあ、よくないのかもしれないけど僕としては良かった。不快だった時怒ってくれるならいいけど、眠兎は自分が悪いってネガティブな方に行っちゃうから、一応フォロー入れとこうかと思って」 「えっ、あ……ありがとうございます」  気を使わせてしまったようだ。  申し訳ないなと思っていると、「そういうとこなんだけど」と苦笑されてよくわからずに顔を上げた。 「僕も別に今まで距離を縮めようと凄く努力をしてきたわけではないけど、短い付き合いでもないし、もう少し甘えてくれてもいいのに」
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