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「(竜次郎……!)」  悠然と歩く竜次郎は一人で、誰も伴っている様子はない。  拘束されている湊を目にすると、一瞬剣呑な気配が立ち昇ったが、余裕の表情を崩しはしなかった。  対する長崎にも驚いた様子は見えない。 「随分、早かったな。そんなにそのガキが大事か」  特に立ち上がることもせず祭壇上から睥睨する長崎に、竜次郎は肩を竦める。 「大事だが、それはあんたに語ることじゃねえな。ヒトの身内に手ぇ出すなんざ下衆な真似しやがって、筋の通ったいい任侠だったと聞いたが、時の流れは残酷だ」  過去のことを言われたせいだろうか。一瞬、長崎の瞳に強い憎しみが宿ったような気がしたが、それはすぐに掻き消えた。  あの男には、やはり松平組に対して何か思うところがあるようだ。 「威勢だけはいいようだが、自分の立場を忘れちゃいねえか?」  吐き出すようにして笑った長崎がちらっとこちらに視線を向けると、近くに立っていた男が、湊の頭に銃を突き付けた。  ごり、という固く冷たい感触に、死んでしまってもいいと考えていた湊も流石に血の気が下がる。生存本能だろう。生きたいという気持ちは理屈ではないらしい。 「おい。そいつに薄汚れた銃口を向けるんじゃねえ」  低い唸り声にハッとして伏せてしまっていた顔をあげると、竜次郎がこちらに鋭い視線を向けていた。  湊を護ろうという力強い瞳を目にすると、鼻の奥がつんとして、来ないで欲しかったなどと言えなくなる。  自分のために、その身を危険に晒してほしくなどないのに。 「そのガキの死体を拝みたくなけりゃ、少し口の利き方に気をつけるんだな」  自分の立場の申し訳なさに、湊は再び俯いた。 「(ごめん、竜次郎……俺が、捕まったせいで……)」 「湊」  名前を呼ばれて、もう一度顔をあげると、竜次郎が真っ直ぐに湊を見ている。  反射的に見つめ返すと、何の気負いもないいつもの調子で、ニヤリと口角を上げた。 「すぐ片付けるから、お前は天井のシミでも数えて待ってろ」 「っ……………」  その声が、言葉が、一瞬で囚われかけていた心をぐっと掬い上げた。  今湊が嘆いたり死んだりしたところで、竜次郎が助かるわけではない。  下らないことを考えて暗い顔をするな、と、言われた気がして目が覚める。  湊の身の振り方を考えるのは、二人とも無事で戻ってからだ。  心の中を覆っていた霧を払われたような心地がして、自分は大丈夫だと頷き返した。  それを見届けた竜次郎は、この状況で何を、と呆れた表情になった長崎に向き直る。 「長崎さんよ、俺はこの通り丸腰で、湊がいなくなって泡食って飛んできたんで無勢だ。その俺と喧嘩したところで大して面白くもねえだろう。人質にしたところで、親父の側近の日守は非情な男だからな。取引材料になるか微妙なところだ。で、俺は博徒だ。博打で片ァつけるってのはどうだ?」  竜次郎を見据える瞳がすっと細くなった。  確かに賭け事ならば血は流れないかもしれないが、過去に遺恨のありそうな長崎に対してその駆け引きが吉と出るか凶とでるか……。 「俺はもう博徒でも任侠でもねえ」 「あんたは博打を捨て切れちゃいないさ。何でこの寺を拠点の一つにした?寺が博徒にとって有難い場所だからだろ」  湊は後から知ったのだが、江戸時代、寺社というのは違法な賭博を行っても摘発されにくい場所で、博徒にとって一般的な賭場だったという。『テラ銭』という言葉は現代も使われているが、それが発祥とする説もあるらしい。  竜次郎は余裕の表情で長崎のリアクションを待っている。  湊も、竜次郎の思うようにことが運べばいいと、固唾を呑んでその様子を見守った。
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