1人が本棚に入れています
本棚に追加
彼女は、今の僕を理解できるたった一つの希望だ。
だから早く、戻ってきてくれないだろうか。
「おかえりぃ」
玄関に入ると、ヤスハが部屋から顔を覗かせ、絵筆を片手にひらひらと手を振っていた。
何とも言えない独特の絵の具の匂いと、甘辛いような料理の匂いが混じり合って、僕は鼻をつまむ。
「夕飯は有り難いが、それをするならキッチンとの扉を閉めてくれ」
「あぁ、ごめんねぇ」
ヤスハは屈託のない笑みを浮かべながら、パレットと絵筆を置き、ぱたんと部屋の扉を閉めた。
無造作に纏めていた髪をほどき、一度わしゃわしゃと掻いて、「よし」と呟き、鍋を温め始める。
「すーくん、着替えといでよ。用意しとくからさぁ」
「ありがとう」
僕はネクタイを緩めながら寝室へ行き、どさっと鞄を床に置いた。その拍子、持ち帰ってきた書類がはみ出したのが見えて、小さく溜息を吐いてしまう。
これも残業だろう、残業。
そう考えるとする気などこれっぽちも湧きはしない、これでまた明日も寝不足になることも間違いないのだから尚更だ。
しゅるりとネクタイをほどいた時、ふと、姿見に映った自分と目が合う。
残業を片手にしながら、小さく苦笑いを滲ませている頬が引きつってるようにも見える。違和感があるほど大人しくさらついた黒髪や小さな黒目。
本当に、不気味なほどよく出来ている。
僕は首元辺りに指を入れ、皮を剥ぎ取った。
ゴムの匂いから解放されて改めて大きく息を吸うと同時に、耳がピンと立って周りの音がより鮮明さを増す。顔周りも一気に冷たく小さく感じた。
それもそうだろう、僕は改めて、自分を見直した。
キッチンから漏れた光だけの薄暗い中で、黄緑色にグラデーションしたビー玉のような目が、きらりと僕を捉える。
そこには、人間の身体を持った猫が一人、立っていた。
相変わらず、何とも言えない奇妙な自分だ。
鏡を通して、この自分を見る事ができるようになって、ようやく半年ほど経ったが、それでもまだ、気持ち悪さが残っていることに変わりはない。
僕は自分に背を向け、ワイシャツを脱ぎ捨てて、そこにある部屋着のパーカーをさっさと着直した。
そして、ワイシャツの首周りに付いた細い猫っ毛を、丁寧に払い落としていく。
最初のコメントを投稿しよう!