その猫は、人間である。

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 彼女は、今の僕を理解できるたった一つの希望だ。  だから早く、戻ってきてくれないだろうか。   「おかえりぃ」  玄関に入ると、ヤスハが部屋から顔を覗かせ、絵筆を片手にひらひらと手を振っていた。  何とも言えない独特の絵の具の匂いと、甘辛いような料理の匂いが混じり合って、僕は鼻をつまむ。 「夕飯は有り難いが、それをするならキッチンとの扉を閉めてくれ」 「あぁ、ごめんねぇ」  ヤスハは屈託のない笑みを浮かべながら、パレットと絵筆を置き、ぱたんと部屋の扉を閉めた。  無造作に纏めていた髪をほどき、一度わしゃわしゃと掻いて、「よし」と呟き、鍋を温め始める。 「すーくん、着替えといでよ。用意しとくからさぁ」 「ありがとう」  僕はネクタイを緩めながら寝室へ行き、どさっと鞄を床に置いた。その拍子、持ち帰ってきた書類がはみ出したのが見えて、小さく溜息を吐いてしまう。  これも残業だろう、残業。  そう考えるとする気などこれっぽちも湧きはしない、これでまた明日も寝不足になることも間違いないのだから尚更だ。  しゅるりとネクタイをほどいた時、ふと、姿見に映った自分と目が合う。  残業を片手にしながら、小さく苦笑いを滲ませている頬が引きつってるようにも見える。違和感があるほど大人しくさらついた黒髪や小さな黒目。  本当に、不気味なほどよく出来ている。  僕は首元辺りに指を入れ、皮を剥ぎ取った。  ゴムの匂いから解放されて改めて大きく息を吸うと同時に、耳がピンと立って周りの音がより鮮明さを増す。顔周りも一気に冷たく小さく感じた。  それもそうだろう、僕は改めて、自分を見直した。  キッチンから漏れた光だけの薄暗い中で、黄緑色にグラデーションしたビー玉のような目が、きらりと僕を捉える。  そこには、人間の身体を持った猫が一人、立っていた。  相変わらず、何とも言えない奇妙な自分だ。  鏡を通して、この自分を見る事ができるようになって、ようやく半年ほど経ったが、それでもまだ、気持ち悪さが残っていることに変わりはない。  僕は自分に背を向け、ワイシャツを脱ぎ捨てて、そこにある部屋着のパーカーをさっさと着直した。  そして、ワイシャツの首周りに付いた細い猫っ毛を、丁寧に払い落としていく。 2ba83ebc-e62f-4a63-9335-551e2f31f084
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