ホシノネコ

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 男がネコジャラシを揺らしながら、つぶやいた。「ここは、良いところだな」  眼下には稲刈り間近の田が広がり、遠くは低くなだらかな山々が青い稜線をつくっている。ふんわりと渡ってくる、風。日は沈んだが、空気は暖かく、空はまだ水色を残している。  茶トラは、ネコジャラシを持つ男の指に鼻先をチョンとつけた。  ずっと前から暮らしていたような気もするし、ついこの間やって来たばかりのような気もする場所。  ここに来る前、茶トラが覚えているのは一枚の写真のような光景だ。  荒く息を吐きながら、自分たちを両腕に抱き上げた男。その後ろの、黒い水けむり。  そして、気が付いたらここにいた。  誰に言われた訳ではないが、ずっとこの場所に留まっていられないことは、男も猫たちも知っていた。そして、誰に言われた訳ではないが、ここを去る日が近いことも知っていた。  茶トラの横で、男は山の上に広がる淡い朱色を見つめている。茶トラはその肘に顔をすり寄せてから、男と同じようにまっすぐ山の彼方を見た。 「ねえ。後悔してない? 自分がしたこと。あんた、あのまま逃げてれば助かったのに」  キジトラがぴんと背筋を伸ばし、その後を続けた。 「そう、後悔してない? あたしたちのために、家に戻ったこと」  男は考えを巡らせるように、顔を上に向けた。透き通った薄紫の空は、よどみがすべて沈んだ後の、濁りのない上澄みのようだった。  男は、優しい眼差しで空を見上げたまま、答えた。 「してるよ」  猫は二匹とも、前を向いたまま瞬きした。その猫たちの頭に、男の手がそっとのった。 「お前たちを助けられなかった」  猫たちは口を開かなかった。今度はもっとゆっくり瞬きし、心安らかな彼らがいつもやるように、尻尾を左右にぱたり、ぱたりと振った。    空は濃い藍色に変わり、白く輝く一番星が小さな合図を灯した。  茶トラが岩からぴょんと飛び降りて、ぐーっと伸びをした。「さ、帰りましょ」  男と猫たちは、彼らの暮らす小さな家に向かってあぜ道を下り始めた。茶トラが跳ねるように前を行く。 「ここはいいところだけど、退屈だわ」 「そうよねえ。早く地上に戻ってセミやネズミに飛びつきたいわ」 「ねえ。あんた、生まれ変わっても、あたしたちを選んでくれる?」 「もちろん」と男。 「ねえ」とキジトラ。「あたし、次はピューマに生まれ変わりたいんだけど」  男はあきれ顔でキジトラを見た。「ピューマは無理だ」 「どれなら、いける? ボブキャット? メインクーン?」 「普通でいいよ」 「意気地なし」  天に夜の帳が下り始めた。  彼らがあぜ道に足を置くたび、その跡は水晶の砂のように、きらきらと白い光を放つ。  よく晴れた晩に空を見上げれば、それはきっと地上からも見えるだろう。
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