14人が本棚に入れています
本棚に追加
男がネコジャラシを揺らしながら、つぶやいた。「ここは、良いところだな」
眼下には稲刈り間近の田が広がり、遠くは低くなだらかな山々が青い稜線をつくっている。ふんわりと渡ってくる、風。日は沈んだが、空気は暖かく、空はまだ水色を残している。
茶トラは、ネコジャラシを持つ男の指に鼻先をチョンとつけた。
ずっと前から暮らしていたような気もするし、ついこの間やって来たばかりのような気もする場所。
ここに来る前、茶トラが覚えているのは一枚の写真のような光景だ。
荒く息を吐きながら、自分たちを両腕に抱き上げた男。その後ろの、黒い水けむり。
そして、気が付いたらここにいた。
誰に言われた訳ではないが、ずっとこの場所に留まっていられないことは、男も猫たちも知っていた。そして、誰に言われた訳ではないが、ここを去る日が近いことも知っていた。
茶トラの横で、男は山の上に広がる淡い朱色を見つめている。茶トラはその肘に顔をすり寄せてから、男と同じようにまっすぐ山の彼方を見た。
「ねえ。後悔してない? 自分がしたこと。あんた、あのまま逃げてれば助かったのに」
キジトラがぴんと背筋を伸ばし、その後を続けた。
「そう、後悔してない? あたしたちのために、家に戻ったこと」
男は考えを巡らせるように、顔を上に向けた。透き通った薄紫の空は、よどみがすべて沈んだ後の、濁りのない上澄みのようだった。
男は、優しい眼差しで空を見上げたまま、答えた。
「してるよ」
猫は二匹とも、前を向いたまま瞬きした。その猫たちの頭に、男の手がそっとのった。
「お前たちを助けられなかった」
猫たちは口を開かなかった。今度はもっとゆっくり瞬きし、心安らかな彼らがいつもやるように、尻尾を左右にぱたり、ぱたりと振った。
空は濃い藍色に変わり、白く輝く一番星が小さな合図を灯した。
茶トラが岩からぴょんと飛び降りて、ぐーっと伸びをした。「さ、帰りましょ」
男と猫たちは、彼らの暮らす小さな家に向かってあぜ道を下り始めた。茶トラが跳ねるように前を行く。
「ここはいいところだけど、退屈だわ」
「そうよねえ。早く地上に戻ってセミやネズミに飛びつきたいわ」
「ねえ。あんた、生まれ変わっても、あたしたちを選んでくれる?」
「もちろん」と男。
「ねえ」とキジトラ。「あたし、次はピューマに生まれ変わりたいんだけど」
男はあきれ顔でキジトラを見た。「ピューマは無理だ」
「どれなら、いける? ボブキャット? メインクーン?」
「普通でいいよ」
「意気地なし」
天に夜の帳が下り始めた。
彼らがあぜ道に足を置くたび、その跡は水晶の砂のように、きらきらと白い光を放つ。
よく晴れた晩に空を見上げれば、それはきっと地上からも見えるだろう。
最初のコメントを投稿しよう!