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友人の土御門太郎に会いに土御門神社を訪ねると、その清涼に佇む山門に貼られた妙な張り紙が夏の熱い風に揺れていた。
『除霊始めました』
……なんだこの冷やし中華始めましたみたいなのは。
その達筆の筆書きはそれだけで威厳を溢れさせる雄渾なものであったが、それを書いたであろう太朗本人の混乱した内心を想像すると著しく残念な気分に陥ってくる。
ぼんやり眺めていると汗が吹き出し、早く中に入れとでもいうようにクマゼミの声がうるさく響く。
除霊、ねぇ。それは改めて募集すべきことなのか。心底そう思う。太郎はこの緑の深い神社で宮司をしている俺の腐れ縁だ。今日も案の定、社務所で1人、のんびりとほうじ茶を飲んでいた。
「あれ? 金井じゃん」
「何だよあの張り紙。お前、普通に仕事で除霊やってんじゃん」
「そんなこといってもさぁ。わかんないんだもん」
太郎は口を尖らせて悪態をつく。いつも思うが子供っぽい。
この土御門太郎という幼馴染は随分変わっている。神社の宮司は仮の姿、とまでは言わないまでもおまけの姿、その収入の大部分を凄腕の陰陽師として賄っている。
その仕事は主に県や市、区、町といった行政から直接請け負う。だから近隣住民は太郎は宮司だからお祓いをしているだろうというくらいは認識していても、陰陽師だなんて人の道に外れた仕事で稼いでいるとは露とも思っていないのだ。
けれどもまさに、太郎はその『陰陽師』という部分が理解できない。なにせ太郎は退魔の力は6代前の先祖返りといわれるほどに強大であるのに、覚知というか認識というか、ようするに太郎には霊や化け物を見るための霊感というものがまるでない。
そして頼まれて除霊をしても、漫画なんかでよくあるようにMP的なものを消費したりも疲れたりもしないらしい。なので太郎にとって除霊という行為は、ただテケレッツノパァとでも唱えるのと同じなのだ。
それでいて適当に唱えた祝詞はその強大な退魔の力で絶大な効果を発揮し、目の前で展開する不幸やら呪いやらを綺麗サッパリスッキリと胡散霧消させるものだから理不尽この上ない。
けれども太郎はその退魔の結果もまた同様に認識できない。だから依頼者にありがとうございますと頭を下げられると、流石にそんなことはないだろうと思いつつも県ぐるみで騙されているのではないかという一抹の不安が拭えずにいつもビクビクしている。
太郎の力は間違いなく有る。馬鹿みたいに本物だ。
なにせ俺は見えるのだから。
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