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今日も私は喫茶店アイリスの分厚い1枚扉を開き、その店内に足を踏み入れる。それと同時に芳しい珈琲の香りが世界を満たす。完全に調和がとれたようなまろやかな香り。これはブルーマウンテン?
そう思ってカウンターの上の『本日の珈琲』を見ると『クリスタルマウンテン』。残念、キューバか。これはキューバにあるエスカンブライ山脈という高知で栽培されているのだそうな。それで前にマスターにブルマンとキューバはよく似ているのですよと教わったことを思い出す。
私がこの喫茶店アイリスに通い初めてそろそろ半年くらい経つ。
私がこの店に通う目的。それはこの喫茶店全体に広がる芳しき珈琲でもなく、懐かしい純喫茶の風情でもなく、いや、それはもちろん素敵であるのだけれど第1番は慣れた手付きでポットをかき回すマスターなのだ。
このあたかも時代に取り残されたようなレトロな喫茶店は40年以上ここでお店を開いているマスターというピース抜きでは語れない。
マスターは私の推しであり、私はマスターに会うために足繁くこの喫茶店アイリスに通い詰めているのである。
そして入り口の開く音を聞いたマスターは不意に手元から目を上げた。尊い。
「いらっしゃいませ、吉岡様」
「こんにちは、マスター。本日の珈琲をお願いいたします」
「わかりました、少々お待ち下さいね」
「にゃあ」
想定外の音がした。
私の目はマスターしか映していなかったわけだが、音につられて目をカウンター沿いに横に滑らせると、そこには一匹の灰色猫が伸びをしていた。
なぜ猫?
猫好きだけど。
手を伸ばしてみたらフイと反対を向いてカウンターの内側に飛び降りる。ずるい。私もそっち行きたい。
「お待たせ致しました」
「その猫どうしたんです? アイリスで飼うんですか?」
珈琲の優しき香りに陶然としていると、マスターは少し困ったように眉尻を下げて僅かに首を振った。
「それが今朝店を開けますとサバカンがドアの前におりまして、そのままするりと店内に入ってきてしまったのです」
「鯖缶?」
「ええ、首輪のところにそのように」
サバカンという声に反応したのか猫がニャァと鳴いて再びぴょいとカウンターに上がってきた。そしてキャメル色の革の首輪に『Ça va!can!』と彫られている。
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