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「ただいま……」
奏はなんとなくそっとドアを開けた。
あれ、と思ったのは台所の灯りがついていたからだ。王子が台所にいるのかと思ったが違った。
「おかえりなさいませ、奏様」
ふたりがけのダイニングテーブルから立ち上がったのは、長身で長髪の男――エリファスだ。今日もマントのような黒服をまとっている。
「エリファスさん……」
そういえば数日後にまたやってくると言っていた。玄関に靴がなかったことからすると、今日もベランダから入ってきたんだろう。
「お仕事お疲れ様です。どうですか、我が王子との同居生活は」
「いや、まあ、それなりに……」
ほんとうのことを言えば同居人を変えてしまうかもしれない。百万の不労所得がなくなったら、妹を進学させてやれなくなる。それは困る。
「あ、えっと、け、契約書でしたね」
「どうしてこんなところにお布団が?」
エリファスの目がダイニングの片隅に畳んでおかれている布団に向いた。おととい通信販売で買ったものだ。布団ワンセットでお値段なんと一九八〇〇円。
ソファーを買おうかどうしようか迷ったのだが、ただでさえせまいダイニングがさらにせまくなってしまうので布団にしたのだ。
「あ、それは、え、えっと」
「ひょっとしなくても王子に私室を乗っ取られましたか」
「い、いや、の、乗っ取られたというか、お、お譲りしたというか……」
「王子の態度に良くないところがあるなら、びしっと叱ってやってください。この家のマスターは奏様、あなたです。しょせん王子はあなたには逆らえないのですから」
エリファスは言ったが、あの尊大王子が奏の言うことをおとなしく聞くとはとても思えない。下手に叱ったりしたら魔力で一刀両断されそうだ。
「お、おれがなんか言ったところで、て、低脳呼ばわりされるだけですから」
「奏様が断固として同居を拒否なされたら、王子はここを出ていくしかありません。掟に従えなかったら、王位継承権は消えてなくなります。王子の王位継承権第一位の座は、奏様の一存にかかっているのです」
「い、いや、でも、お、おれの意志なんて、ま、魔力で、ど、どうにでもできるん、じゃ」
奏はエリファスに促されて椅子に座った。またもや美形を真正面から見つめてしまう。この数日で一生ぶんの美形を摂取してしまった。美形の過剰摂取はきっと身体によくないはずだ。
「私たち魔族は人間を攻撃することができません。人間界との交流が始まった十年前、我が魔王がお決めになったのです。人間に危害を加えたものは『奈落』へ落とす、と」
「奈落……?」
「奈落には百万の苦痛と百万の死があると言われています。私たち魔族がもっとも恐れる場所です。人間の意志を魔力で操作することも、人間に対する攻撃と見なされます」
そういえば魔族が人間界で問題を起こしたという話は、ついぞ聞いたことがない。恐ろしい罰が待ち受けているからなのか。
「ですから、奏様。王子など恐れるにあらずですよ。どれほど居丈高に振る舞ったところで、王子はあなたには逆らえないのです。王子にできるのは、せいぜい暴言を吐くくらいで」
暴言だってじゅうぶん暴力だと思うのだが、それは攻撃と見なされないんだろうか。
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