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妹と別れて家に帰ると、無人の家が奏を待っていた。
台所にも部屋にもどこにもミハイエルの姿はない。どうやら出かけたらしい。
高校がまだ始まっていないとはいえ、家に一日中引きこもりっぱなしでは、心身の健康によろしくない。出かけるのはいいことだが、ミハイエルをひとりで外に出してよかったんだろうか。果たして人間界のシステムをどこまで理解しているのか。どうも心配だ。
奏が台所で夕食の支度をしていると、玄関のドアが開く音がした。
「あ、お、お、おかえりなさい」
顔をのぞかせると、玄関先で黒い革のブーツを脱いでいる姿があった。ベランダからではなくちゃんと玄関から出ていったようだ。しょっちゅうベランダから出入りしていたら、あの部屋に魔族がいると近隣の住民たちに気づかれてしまいかねない。ミハイエルもそう思ったのかもしれない。
ミハイエルは大股に台所を横切ると、どさりと椅子に腰を下ろした。その顔はいささか――ではなく不機嫌そうだ。心なしか頬がやつれているように見える。
「……あ、あの、な、なにかあったんですか?」
「ひどい目にあった」
ミハイエルは吐き捨てるように言った。
「ひ、ひどい目……とは?」
「いったいなんなんだ、人間界の連中は。一緒に写真を撮ってくれだの、いまからどこかにいかないかだの、モデルに興味がないかだの。初対面の相手に対して馴れ馴れしいにもほどがある。少し街を散策しようと思っただけなのに、ひどい目にあった」
要するに街を歩いていたら逆ナンされたり、スカウトされたりしたらしい。
そりゃあまあそうなるよなあ……。芸能人も顔負けの顔立ちにスタイルである。ナンパのひとつもされるだろうし、スカウトの声だってかかるだろう。
それにただ見た目がいいだけではない。ミハイエルには人を惹きつける魔力のようなものがある。
魔界ならともかく、ここでのミハイエルは見た目が素晴らしく整ったただの人間だ。無遠慮に近づいてくる人間は、これから先も大勢いるだろう。
「そ、それはそれは……お、お疲れ様でした。い、いまお茶を淹れますね」
ほうじ茶を淹れてミハイエルの前へ差し出すと、いきなり手首をつかまれた。ひんやりした感触に心臓がぎょっと飛び跳ねる。
「なっ、なに――」
「おまえはどこにいってたんだ。妹と会うと言っていたが」
ぐいっと引っ張られて、奏はミハイエルの胸に倒れこんだ。抱き寄せてきたかと思うと、髪に鼻先をうずめてくんくんと鳴らす。
「やけに甘い香りがするな。いつものおまえの香りとは違う」
「ぱっ、ぱっ、パンケーキを食べてきたんですっ! ちょ、な、な、ななにしてるんですか! は、離してくださ――」
抵抗するまでもなく、手はあっさりと離れた。
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