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「……え、え、えーっと、こ、こちらが頼まれていた、し、資料です」
奏は集めてきた資料の束を、硝子のテーブルへおいた。ふかふかのソファーはいつも腰が落ちつかなくなる。
反対側のソファーへ座っているのは、人気作家の花藤響己(はなふじ ひびき)だ。
響己の自宅は人気作家にふさわしい広々としたマンションで、センスのいいインテリアが設えてある。いま奏が腰を下ろしているソファーひとつで、奏の数ヶ月ぶんの給料が飛んでいくに違いない。
「もう集めてきてくれたんだ。内海くんはいつもフットワークが軽いよね。そういうところ好きだなあ。ありがとね」
響己は感じよく微笑んだ。
今日も相変わらず作家にしておくのが惜しいほど格好いいな、と他の作家に訊かれたら憤慨されそうな感想をこっそり抱く。学生時代はファッション雑誌の読者モデルをしていたとのことで、背がすらりと高く、顔立ちも爽やかに整っている。オレンジブラウンに染めた髪といい、さりげなく流行りを取り入れた服装といい、どこからどう見ても作家ではなくモデル、さもなくば俳優だ。
確か今年で二十八になるはずだが、大学生といっても通用しそうなほど若々しい。
「えっ、い、いや、そ、そんな。せっ、せ、先生はずっとう、う、うちで書いてくださっています、から。ぼっ、僕もできるかぎりがんばろう、と」
響己は奏が担当している作家のひとりだ。大手出版会社――ツキヨミ舎の編集者、それが奏の仕事だった。
中学、高校と友人のひとりもいなかった奏は、日々勉強に明け暮れた。他にすることがなかったからだ。我ながらわびしい青春だったが、そのおかげでレベルの高い大学に合格し、コミュ障でありながら難関とされる出版社へ就職できたのだ。
「がんばってくれている内海くんにはお礼をしないとなあ。そうだ、この間いい店を見つけたんだよ。内海くん、イタリアンは好き?」
「え、あ、は、はい、す、好きですけど……」
好きといってもイタリアンと言われて思い浮かぶのは、ピザとスパゲッティだけだ。
「じゃあ、一緒に食べにいこう。いつがいい? なるべく早いほうがいいんだけど。なんなら今日でも」
響己はテーブルへ身を乗り出す勢いだ。
「えっ、そ、そうですね――い、いや、きょ、今日はちょっと……」
勢いに呑まれてうっかりオーケーしそうになったが、魔界の王子様の存在を思い出して、慌てて断る。
子供じゃないんだから放っておいても大丈夫だろうと思うのだが、ずっと家にひとりにしておくのはいささか不安だ。人間界の常識をまだわかっていないだろうし。
「そうか……残念だなあ」
響己はほんとうにがっかりしたらしく、肩を落とした。
「あ、あのっ、今日じゃなければ、い、いつでもか、かまいませんので。あ、よ、予約は僕のほうでしておきますから。そ、そ、そのときに次の作品の打ち合わせを」
「まさか経費で落とす気? だめだよ、それじゃあただの打ち合わせじゃない。お礼にならないよ」
響己は唇を尖らせた。
「えっ、で、でも、は、花藤先生に自腹を切らせるわけには――」
「俺は君にお礼がしたいんだよ」
「お、お礼だなんて……。ぼ、ぼ、僕は仕事をしている、だけ、なので……。お、お礼をしてもらうようなことは、なにも」
編集者として当然の仕事をしているだけなのに、お礼などされては困ってしまう。それに打ち合わせならともかく、他人と食事に出かけるなんてコミュ障には荷が重い。
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