317人が本棚に入れています
本棚に追加
「内海くんにとって仕事なのはわかってる。だから、偶には仕事とは関係なく、プライベートなつきあいをしたいんだよ」
「ぼ、僕と……ですか?」
意味がわからない。
おれと食事なんかしたって楽しくもなんともないのに。会話の引き出しは少ないし、そもそも人としゃべるのは極端に苦手だ。緊張のあまりどうしても吃ってしまう。仕事ならがんばってコミュニケーションを図るけど、プライベートでまでがんばりたくない。頭髪が抜ける。
「そうだよ。内海くんが担当になってもう半年になるじゃない。お互いの距離をもう少し縮めてもいいころだと思うんだよね」
「は、はあ……」
作家と担当の距離なんてあまり縮めようがないと思うのだが。
すみませんがお断りします。そう言いたかったが、相手は売れっ子作家だ。下手に怒らせて『金輪際おたくでは書かない』などと言われてしまったら、奏のクビが飛ぶ。
「わ、わ、わかりました。……じゃ、じゃあ、日にちが決まったら、れ、連絡して、ください」
奏はそう言い残して、花藤宅を後にした。
仕事が終わったら妹に電話をするつもりだったが、業務が終わったころには二十一時をまわっていた。まだ高校生の妹をこんな時間に呼び出すわけにはいかない。
奏は電車に揺られながら、妹の杏にメッセージを送った。
『進学の件だけど、どうにかなりそうだよ。これから三年間、給料とは別に毎月百万の収入が入ることになったんだ。ぜんぶ夏目さんに渡して、大学の費用と会社の資金にしてもらう。それなら大学にいけるだろ? 詳しいことは今度の休みに会って話すよ』
すぐに杏から返信があった。
『毎月百万の収入ってどういうこと? まさか悪いことでもしたの?』
いったい兄をどんな人間だと思っているんだ。奏はスマートフォンの画面を見つめながら口を尖らせた。
『悪いことなんてするはずないだろ。清らかなお金だから安心しろって。会ったときにちゃんと理由を話すから。あ、夏目さんたちにはおれから話をするからね』
夏目というのは母親の再婚相手の名前だ。両親が離婚したのはいまから十年ほど前のこと。奏は父親に、八つ年下の妹は母親にそれぞれ引き取られた。
離ればなれになってしまってからも、奏は月に一度は妹と会っていた。
『じゃあ、お兄ちゃんを信用することにするけど。でも、お金があるならまずは自分の奨学金を返しなよ。私はともかく、夏目のお義父さんのことはお兄ちゃんに関係ないんだから』
返ってきたメッセージに、いつの間にか大人になったんだな、としみじみする。少し前まではがんぜない子供だったのに、こうして兄を気づかうまでに成長したのか。
『とにかく次の週末に会ってちゃんと話をしよう。いきたい店があるならつきあうよ』
『それなら、ちょうどいってみたいパンケーキの店があるんだ。ちょっと並ぶけどいいよね』
奏はオッケーのスタンプを送った。それで話は終わりだと思ったのだが、
『お兄ちゃん、自分のことをまず第一に考えないとだめだよ。人が良いのもほどほどにしないと幸せになれないんだから』
杏は最後にそう送ってきた。液晶画面に浮かんだ文字をしばらくながめてから、スマートフォンをポケットにしまう。
そんなことを言われても――妹のおまえが幸せになってくれないと、おれだって幸せになれないんだよ。
窓の外を流れていく夜景をながめながら、心の中でつぶやいた。
最初のコメントを投稿しよう!